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【日向神話】 「天孫族・追憶の旅」 宮崎編 ハイライト

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◆3月22日(土)~24日(月)
【日向神話】「天孫族・追憶の旅」宮崎編ということで、宮崎に行ってきました。
とりあえず、御報告まで・・・
22日午前10時出発・・・24日午後8時30分帰着。
好天に恵まれて充実したいい旅ができました。

▼白い桃の花

▼桜も満開


◆霧島神宮・古宮址(霧島市高千穂峰)
霧島神宮古宮址は、鹿児島県霧島市にある霧島神宮の古宮跡。
古宮斎場もあり、「天孫降臨」の伝承地とされる。


◆霧島東神社
霧島東神社は、高千穂峰への中腹、標高500メートルの高台に鎮座。創建は第10代崇神天皇の代、と言われ、瓊々杵尊(ニニギノミコト)が天孫降臨された際に、初めて祖先の神々を祀ったところと伝えられている。霧島六所権現の一社。
高千穂峰山頂に立つ天の逆鉾(あまのさかほこ)は霧島東神社のご神宝

▼霧島東神社の鳥居付近より望む「御池(みいけ)」
周囲約4kmの火口湖で、神武天皇が幼いころ、水辺で遊んだとの伝承が残っている。


◆狭野神社
狭野神社(さのじんじゃ)と読む。社名は神武天皇の幼名「狭野尊(サノノミコト)」にちなむもの。
創建は孝昭天皇の時代。神武天皇が誕生した地(高千穂峰の麓の皇子原)にお祀りされたと伝えられている。神武天皇は初代天皇にご即位するまでは、神日本磐余彦(カムヤマトイワレヒコ)、ご幼名は狭野命(サノノミコト)。天照大御神から五代目の御孫。鵜草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)(鵜戸神宮ご祭神)の第四皇子で、母は玉依姫命(タマヨリヒメ)。お生まれは宮崎県西諸県郡高原町大字狭野と言われ、この地に狭野神社が鎮座している。

▼狭野神社の拝殿と龍の彫刻


◆霧島岑神社
御祭神は、瓊々杵尊(ニニギノミコト)、木花咲耶姫命、彦穂々出見尊、豊玉姫命、鵜葺草葺不合尊、玉依姫命。神仏習合時代には、「霧島中央権現宮」とも称された。その後「霧島六社権現」の中心として信仰を集め、霧島信仰が隆盛期を迎えた。

▼霧島岑神社の拝殿


◆東霧島神社(つまきりしま神社)
東霧島神社の東は「つま」と読む。霧島東端の長尾山、そのふもとで「東霧島権現」と呼ばれていた霧島六所権現の1つで第5代孝昭天皇代の創建とされる。
鬼が一夜にして積み上げたと伝えられる石段の上に社殿が建てられている。

▼「神石」
伊弉諾尊(イザナギノミコト)が十拳剣をもって真っ二つに切ったとされる石。


◆鵜戸神宮
鵜戸神宮の創建は紀元前と伝わり、主祭神は鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)。
火照命(ホデリノミコト)=山幸彦が、兄の火遠理命(ホオリノミコト)=海幸彦の釣り針を探しに海宮(龍宮)に赴かれ、海神のむすめ豊玉姫命と深い契りを結ばれた。山幸彦が海宮から帰られた後、身重になられていた豊玉姫命は「天孫の御子を海原で生むことは出来ない」とこの鵜戸の地に参られた。霊窟に急いで産殿を造られていたが、鵜の羽で屋根を葺終わらないうちに御子(御祭神)はご誕生になった。故に、御名を「ウガヤフキアエズノミコト」という。
豊玉姫が出産のために陸に上がり、造った産屋の跡が本殿のある洞窟だったといわれる。

▼「霊石・亀石」
本殿下の磯に、母君豊玉姫が出産の為に乗って来られたと言われる「霊石亀石」(れいせきかめいし・桝形岩)がある。この亀石の背中に桝形の窪みがあり、この窪みに男性は左手、女性は右手で「運玉」を投げ入れ、見事入ると願いが叶うといわれている。


◆潮嶽神社(うしおだけ神社)
全国で唯一火遠理命(ホオリノミコト)=海幸彦をお祀りする神社といわれ、海幸彦・山幸彦の争いの時、満潮に乗り磐船にてお着きになった。そこでこの地を潮嶽の里といい、ここに宮居をお立てになって年久しくご統治され、隼人の始祖となられたと伝えられている。ご鎮座は口碑によれば神武朝の頃と伝えられ、世々の領主、地頭、藩主、更には広く一般庶民より崇敬された社である。

▼潮嶽神社の本殿の彫刻


◆青島神社
火照命(ホデリノミコト)=山幸彦が海宮から帰還したときの住居の跡として三神を祀ったと伝えられている。
明治以降は国内絶無の熱帯植物繁茂の境内を訪れる人が多く、縁結び、安産、航海、交通安全の神として、益々神威が輝くようになったという。

▼青島神社御本殿・・・境内には、「海積の祓」、「産霊紙縒」、「天の平瓮投げ」など様々な願掛けスポットがある。


◆立盤神社と美々津の海
立磐神社(たていわじんじゃ)は、神武東征御船出の地として知られ、創祀されたのは景行天皇の頃。境内には神武天皇が座ったとされる岩がある。
参道入り口には、「日本海軍発祥の地」のモニュメントが建てられている。

▼神武天皇が東征のため水軍を進発したと伝えられる朝日に輝く美々津浦。


◆都農神社(つの神社)
都農神社の縁起では、神武天皇東征の時、都農神社で航海安全・武運長久を祈願されたという。ここから出航の地 美々津に向かわれたと考えられている。
神々の時代が終わって、天孫・ニニギの血を引く神日本磐余彦(カムヤマトイワレヒコ)=神武天皇は、日向から東遷して大和地方に国を建て、橿原宮で即位して第一代天皇となる。神武天皇が東遷して大和を平定する物語の事を「神武東征」と呼ぶ。

▼都農神社・拝殿


◆都萬神社(つま神社)
御祭神は木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)。木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)は天照大神(アマテラス)の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の妻。

都萬神社(都万神社)の起源は古く「続日本後記」(837年)に”子湯郡妻神”と書かれている。(地名は妻=つま)
背後にある西都原古墳群の中の巨大古墳・男狭穂塚はニニギの御陵、女狭穂塚はコノハナサクヤヒメの御陵と伝えられている。
また、ニニギとコノハナサクヤヒメが出会った逢初川、コノハナサクヤヒメが三柱の御子を生んだ「無戸室」(うつむろ)の跡も神霊の地として大切にされている。

▼都萬神社のご神木


◆鹿野田神社
鹿野田神社は、古くは「潮妙現大明神(うしおみようげんだいみょうじん)」と称し、火照命(ホデリノミコト)=山幸彦を祭神とする。鹿野田神社境内に、「潮満玉の泉」と呼ばれる海水の湧き出る井戸があり、御神水となっている。



◆宮崎神宮
主祭神は日本の初代天皇・神武天皇。
神武天皇は初代天皇にご即位するまでは、神日本磐余彦(カムヤマトイワレヒコ)、ご幼名は狭野命(サノノミコト)。天照大御神から五代目の御孫。鵜草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)(鵜戸神宮ご祭神)の第四皇子で、母は玉依姫命(タマヨリヒメ)。

宮崎神宮の由来には、健磐龍命(タケイワタツノミコト)が九州を治められている時、この土地に来られて祖父・神武天皇の神霊を祀られたのが、宮崎神宮の始まりであるとされている。
健磐龍命(タケイワタツノミコト)は、別名・阿蘇大名神とも呼ばれ、阿蘇神社(阿蘇一の宮)の御祭神である。

▼宮崎神宮拝殿・・厳かで 静謐。神秘的な雰囲気が漂っていた。


◆宮崎縣・護国神社
宮崎県護国神社は、国家公共に尽くしたご英霊をまつる神社で、宮崎神宮の隣に鎮座している。


◆江田神社と「禊池」(みそぎいけ)
江田神社は宮崎市の市民の森に隣してある神社。伊邪那岐尊(イザナギノミコト)を主祭神とし、伊邪那美尊(イザナミノミコト)を配祀する。
伊邪那美尊は寿永2年(1183年)に増祀されたもので、以後この2柱を「産母(やぼ)二柱大明神」と号し、地元の人々からは「産母(やぼ)様」と呼ばれている。

▼パワースポットの禊池。黄泉の国から戻った伊邪那岐尊(イザナギノミコト)が禊(みそぎ)を行った場所と言われている。



◆一番印象に残った美々津の海の日の出



【住吉神社・住吉荒魂本宮】 (下関) 三大住吉の一つ

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【住吉神社・住吉荒魂本宮】 山口県下関市一の宮住吉1-11-1
編集中

【住吉神社・住吉荒魂本宮の起源】
『日本書紀』によれば、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「反乱軍の背後には三韓の勢力がある。まず三韓を征討せよ」との神託を得た。しかし天皇はこの神託に従わず、翌年の仲哀天皇の9年(200年)、天皇は崩御した。その翌月、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて三韓へ出航した。

その三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后に
住吉三神(住吉大神)の『吾 和魂(にぎみたま)は 玉身(みみ)に服いて寿命を守り、荒魂(あらみたま)は先鋒となりて 師船(みいくさのふね)を導かん』との神託により大神を守神として進軍し、神助により交戦することなく戦勝した。

凱旋の折には、大神の「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と再び神託があり、神功皇后は現在の地に祠を建てて、「荒魂」を鎮祭したのが住吉神社の起源である。

また、神功皇后は「和魂を」大津の渟中名倉の長峡に鎮めて祀り、本霊である「住吉三神」をして摂津の国大阪の地に住吉大社の総本社を創建して祀った。

その後、住吉大社には神功皇后も祀られるようになり、住吉大神と神功皇后とで、「住吉坐神社四座」と呼ぶようになった。

住吉神社・住吉荒魂本宮は、創建の由緒から軍事と海上交通の神として厚い崇敬を受け、延喜式神名帳では名神大社に列し、長門国一宮とされた。鎌倉時代に入り、源頼朝を始め歴代将軍からの社領などの寄進を受けた。戦国時代に一時衰微したが、大内氏、毛利氏からの崇敬を受けて復興し、江戸時代には長州藩主毛利氏によって社殿の修復が行われた。明治4年(1871年)に国幣小社となり、明治44年(1911年)に官幣中社に昇格した。

◆参道から楼門へ
広く開放感のある境内。参道の横には広い池があり、落ち着いた雰囲気がある。

▼太鼓橋と参道

▼手水舎  神紋は水巴

▼手水舎のユニークな容の石像

▼神籠石(こうごいし)

▼微笑ましい阿形の狛犬  (昭和19年9月吉日建立)

▼吽形の狛犬

▼参道の石段の上に楼門が見えてきた。

【綱分八幡宮】神宮皇后が天神地祇に「三振の宝剣」を祀る

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【綱分八幡宮】(つなわき八幡宮) 福岡県飯塚市綱分866-1
編集中

≪御祭神≫:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后

【綱分八幡宮由緒】  
 往古 神功皇后、新羅より帰らせ給い、その年12月14日、粕屋郡蚊田(現、宇美)村にて誉田皇子(応神天皇)を生まし給ふ。
明年辛巳歳春2月京に帰り上らせ給わんとて、皇子をたずさえ蚊田村より大口の峠を越させ給い、穂波郡に出させ給う。それより嘉麻郡にうつらせ給い、金石山の麓金丸村(現綱分)の清地に御輿をとどめさせ給ひ、皇后勅曰く、「吾この度三韓を隨え筑紫をおさむ、猶又婦女のただならぬ、身につつがなく皇子やすらかに生させ給う事偏に神の力なり。然れば此所に於て天神地祇(てんしん-ちぎ)を祭り報賽の幣帛を奉らん。」と武内宿禰に命じて神祇を祭らせ給う。この時神霊となりし三振の宝剣その他種々の神宝又蚊田村にて、安産のまじないなればとて、槐(えんじゅ)の枝にかけ給ひし御産の綱を分て、この斎場に納めさせ給う(よって綱分の号ここに起こる)。

かくて皇后群郷及百寮をひきいて京に帰り上らせ給う。それより御代々を経ぎ人皇45代聖武天皇神亀年中に至りて、郷人いにしへよりの伝説にもとずき八幡宮を祝い奉らんと宮所を定め、その地を改めしに三つの瓶を掘らせり。内に三振の宝剣(皇后神祇を祭らせ給いし時神霊となりし宝剣)あり、則八幡宮三所(応神天皇・仲哀天皇・神功皇后)の御神体として、初めて祝い祭り奉る綱分八幡宮是なり。

◆天神地祇(てんしん-ちぎ)‥‥‥天つ神と国つ神。天地の神々の意

◆報賽と幣帛
「報賽(ほうさい)」とは祈願が成就したお礼に神仏に参拝すること。
「幣帛(へいはく)」とは祭祀において神々に対する報賽や祈願などのために奉られるもの。
「幣」「帛」が共に布にちなむ意味を持つことから、古くより絹や麻、木綿(ゆふ)などの布帛を柳筥(やないばこ)に納めてお供えをした。

◆石上神宮の有名な「三振の宝剣」
奈良県に鎮座する石上神宮(いそのかみ神宮)は武門の棟梁たる物部氏の総氏神で、その「三振の宝剣」は、それぞれ布都御魂(ふつのみたま)、布留御魂(ふるのみたま)、布都斯魂(ふつしみたま)と呼ばれる3つの宝剣である。
三振目の布都斯魂は、スサノオが八岐大蛇を退治したときの十握剣(とつかのつるぎ)という。

◆槐(えんじゅ)
マメ科の落葉高木。葉は羽状複葉で、小葉は長卵形。夏に、黄白色の小花が群生して咲き、くびれたさやのある実がなる。中国の原産。


綱分八幡宮の創建は神亀2年(725)と伝えられ、筥崎八幡宮や大分八幡宮と並ぶ由緒ある神社で、隔年毎秋に行われる放生会御神幸祭は県無形民俗文化財に指定されている。

▼「縣社綱分八幡宮」「郷社綱分八幡宮」の二基の社号標と一の鳥居

▼一の鳥居  すぐ奥に注連柱と二の鳥居


▼注連柱と二の鳥居

▼二の鳥居

▼阿形の狛犬

▼吽形の狛犬

◆◇◆鎮守の杜の丘の下の広い境内
灯籠が建つ参道を進むと、広場のような下の境内があり、右手には御旅所らしき祭壇、突き当たりの石段の上には忠魂碑や軍人祈念碑が立てられている。広場の左手の中央にご神木があり、その隣に大きな鎮守の杜の丘の上の境内へと上がる石段参道がある。

▼ご神木

▼ご神木と三の鳥居と石段の参道

▼三の鳥居と石段の参道

【大分八幡宮】 神功皇后が三韓征伐の帰途、逗留した地

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【大分八幡宮】 (だいぶ八幡宮)     福岡県飯塚市大分1272


▼大分八幡宮の朱色の透塀

奈良時代の神亀3年(726年)に創建された。

大分八幡宮は神功皇后ゆかりの社で、
この地は神功皇后が三韓征伐から帰国され粕屋の宇美八幡宮で応神天皇をご出産後、京にご帰還の途中、軍隊を引率してしばらく逗留された所であるという。
途中にある険しい峠の「ショウケ越え」は竹で編んだザルすなわち「ショウケ」に生まれて間もない応神天皇を入れてこの峠を越えたことから名づけられたという。
境内には宇美八幡宮で生まれた応神天皇が、ここで産湯を使ったと伝えられている「応神天皇産湯の井戸」がある。

また「大分」(だいぶ)の地名は此処で軍隊を解散したこと、つまり「大分かれ」から「大分」になったとされている。 

『筥崎宮縁起』(石清水八幡宮記録)によれば、平安時代の延喜21年(921年)箱崎浜(現福岡市東区箱崎)への遷座の託宣があって、延長元年(923年)に遷座したのが筥崎宮の始まりであるとし、宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』にも筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあるが、筥崎宮へ遷座した後も九州五所別宮の第一社として篤く信仰されていた。

創建当時の社殿は現在地より後方の丘陵上にあったが、戦国時代に戦乱のため焼失。
天正5年(1577年)に秋月種実が現在地に再建した。

■御祭神■
応神天皇、神功皇后、玉依姫命

▼大分八幡宮由緒記

【大分八幡宮・由緒記】
当宮は、神功皇后御征韓後粕屋の宇美邑にて応神天皇御出産遊ばされ、
翌年の春、京にお上りの際軍隊を引率され粕屋、嘉穂の郡境にある験しい山「ショウケ越え」を経られ、当宮に至り坐して暫しお止りになり筑紫の行政をお執り遊ばされ、此地にて軍隊を解隊せられし由縁の地なり。

宇佐宮託宣集に我宇佐宮より穂浪郡大分宮は我本宮なりとあり。本邦五所別宮第一に列せられ朝廷の尊崇 篤く、筥崎宮の元宮として由緒正しく、第四十五代聖武天皇神亀3年(726)御神託によって創建せられ、応仁天正の九州動乱にて御社殿は兵火に罹り焼失し後天正5年(1577)秋月種実公勅命に依り現在地に仮殿を建立、御神霊を勧請鎮座せられたる御社殿がその侭今日に至る。

神殿裏山の小高い丘状の盛土は、全国でも珍しい皇室古墳埋蔵推定地「仲哀天皇御陵」として考古学者の学問的期待をかけている聖地であり、往古旧社殿は小高い丘の前にありて跡地に礎石のみ残れり。

◆◆鳥居と参道

▼一の鳥居

▼一の鳥居の「大分宮」の扁額と注連縄

▼社号標  「九邦五所別宮第一大分宮」

▼倒立の阿形の狛犬

▼起立の吽形の狛犬

▼二の鳥居

◆◇◆広い境内の風景
神門の前の広い境内には、県天然記念物指定の御神木の大楠や放生池、そして「応神天皇産湯の井戸」などがある。

▼放生池と鴨

▼三の鳥居と社叢

◆◆御神木の大楠
推定樹齢:約350年、胴周り径:約9m  県天然記念物指定
社伝によると神功皇后が朝鮮半島から持ち帰った木の子孫らしい。

▼御神木の大楠①

▼御神木の大楠②

▼御神木の大楠③

▼御神木の大楠④

◆◆「応神天皇産湯の井戸」
宇美八幡宮で生まれた応神天皇が、ここで産湯を使ったと伝えられている。


▼三の鳥居と参道

▼阿形の狛犬

▼吽形の狛犬

▼神馬

▼手水舎

▼注連柱と参道

▼神門の前の水路①

▼神門の前の水路②

◆◆大分八幡宮・神門

▼神門(表)

▼神門表側の仁王像① 阿形

▼神門表側の仁王像② 吽形

▼神門裏側の随神像① 阿形

▼神門裏側の随神像② 吽形

▼神門(裏)

◆◇◆大分八幡宮・拝殿
■御祭神■
応神天皇、神功皇后、玉依姫命

▼大分八幡宮・拝殿①

▼大分八幡宮・拝殿②

▼大分八幡宮・拝殿③

▼「大分宮」の神額

▼大分八幡宮・拝殿内部①

▼大分八幡宮・拝殿内部②

▼大分八幡宮・拝殿内部③

大分八幡宮の神紋は、香椎宮、筥崎宮、宇佐神宮、住吉神社(福岡)、綱分八幡宮、志賀島神社、志式神社と同じ「左三つ巴」

「右三つ巴」は、忌宮神社と宇美八幡宮と綿津見神社と織幡神社

◆◇◆大分八幡宮・御本殿
▼大分八幡宮・御本殿①

▼大分八幡宮・御本殿②

▼大分八幡宮・御本殿③

◆◆裏山の旧社殿と小高い丘の皇室古墳埋蔵推定地「仲哀天皇御陵」
応仁天正の九州動乱で旧社殿は兵火に罹り焼失したが鳥居だけは残っている。

▼旧社殿の鳥居

▼旧社殿の鳥居の「大神宮」の扁額

◆皇室古墳埋蔵推定地「仲哀天皇御陵」



▼裏山の小高い丘から眺めた社殿




▼大分八幡宮の梅の花

信之介さま・徒然通信 <新年度の春の風景>

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東筑高校・同窓の信之介さまから 『徒然通信』が届きました。

◆◆信之介さま・徒然通信  4月1日受信



今日から新年度です。

今年はあっという間に桜が開花から満開になってしまいました。


「40有余年前の東筑在学中には、この時期は春休みでもしかしたら東筑の桜を見たことがないかも知れない。」と、ふと思い東筑に桜を見に行って来ました。

勿論、我々の在学中と正門を除いて大分風景は様変わりはしていますが、写真の解説をします。

1枚目は正門の階段の上の方に有る桜です。我々の頃はここに桜が有ったかどうかは記憶にありません。


2枚目は現在の1F柔道場、剣道場、2F体育館が有る建物の脇の桜です。
この建物は昔の体育館の辺りだと思います。

この体育館の下辺りに弓道場がありこの辺りにも桜の林が有りました。

意外にも校庭側には桜の木が有りませんでした。

正門階段を途中から右にロータリーの方に上ってゆく小道には先輩方が卒業何周年かの記念に植樹された若い桜の木が有ります。

3枚目は69期還暦記念植樹の豊後梅が、新芽を付けてるところです。


今年も春が短くいきなり梅雨、暑い夏がやってくるかも知れませんが、今の野山には花が盛りでこれからは新芽の色が綺麗です。

改まって北九州の季節感に感動する今日この頃です。

【鶯塚】 神功皇后が三韓遠征の後、軍隊を解散した「大分れ」の場所

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【鶯塚】 (うぐいす塚)                  福岡県飯塚市大分

JR筑前大分駅の東約100mの位置にある。
直径約20mの円形の塚で、丘の木々の中に多数の巨石が露頭している。
丘の頂上には「鶯塚」の石碑がある。

【神功皇后伝説】
三韓遠征の後、神功皇后は粕屋の宇美邑にて応神天皇を出産ののち、翌年の春、京にお上りの際軍隊を引率され粕屋、嘉穂の郡境にある験しい山「ショウケ越え」を経られ、大分(だいぶ)にお着きになった。
神功皇后は、この「鶯塚」で軍勢を解散し、それぞれの故郷に帰らせたという。
この地(大分)の鶯塚で兵士達と別れたので「大いなる分かれの場」だから「大分」になったという地名譚がある。
また近くには神功皇后が暫し滞留され、
筑紫の行政を執行されていたという由縁の大分天満宮がある。

◆JR筑前大分駅

▼JR筑前大分駅の駅長さんにも場所探しでお世話になりました。

▼JR筑前大分駅の東のあの林が「鶯塚」

◆◆鶯塚 (うぐいす塚)
三韓遠征の後、神功皇后は粕屋の宇美邑にて応神天皇を出産ののち、翌年の春、京にお上りの際軍隊を引率され粕屋、嘉穂の郡境にある験しい山「ショウケ越え」を経られ、大分(だいぶ)にお着きになった。
神功皇后は、この「鶯塚」で軍勢を解散し、それぞれの故郷に帰らせたという。

▼鶯塚①

▼鶯塚②

▼鶯塚③

▼鶯塚④ 鶯塚の祠

▼鶯塚⑤

▼丘の頂上の「鶯塚」の石碑

◆鶯塚のご神木
▼鶯塚のご神木①

▼鶯塚のご神木②

▼鶯塚のご神木③

▼鶯塚のご神木④


【曩祖八幡宮】 神功皇后が納祖の森に天神地祇を祀る

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【嚢祖八幡宮】 のうそ八幡宮         福岡県飯塚市宮町2-3

▼嚢祖八幡宮・拝殿

▼嚢祖八幡宮・駐車場


曩祖八幡宮(のうそはちまんぐう)は、福岡県飯塚市にある神社で、旧社格は県社、現在は神社本庁の別表神社。旧称納祖宮。

曩祖八幡宮は、紀元八百六十一年(約千百五十年前)に神宮皇后が現在の当宮境内地を聖地と選び定め、戦捷報告の祭典を執り行ったことに始まる。
以来、里人はその 聖地を『嚢祖の杜』と称え、祖先の神霊を祀り、後に長崎街道の宿場町として栄えた飯塚の産土さま(ウブスナ・里の護り神)として多大な信仰を集め今日に至る。飯塚の鎮守として崇敬され、また子守りの神としても信仰されている。


【曩祖八幡宮由緒】
神功皇后が三韓征伐からの帰途、納祖の森に祭壇を設けて天神地祇を祀り、長年つき従った九州の臣たちと別れを惜しんだと伝えられています。このとき、人々が「またいつか尊顔を拝し奉らん」と口々に言い、この「いつか」が「飯塚」の名の由来であるといわれております。

社伝では、その跡に作られたのが当社であるといいます。創建年代は不詳ですが、延文4年(1359年)には社殿が建立されてました。大正13年に県社に昇格しました。

◆鳥居と石段の参道
手前の鳥居は「須佐宮」、奥の鳥居が「曩祖(納祖)八幡宮」の鳥居

▼「曩祖(納祖)八幡宮」の鳥居

▼石段の参道と随神門

▼阿形の狛犬

▼吽形の狛犬

◆◆随神門


◆随神門表側の随神像


◆随神門裏側の彩色が良く残る精悍な狛犬


▼随神門から拝殿を望む

◆◆曩祖八幡宮・境内

▼手水舎 この神紋は「左三つ巴」になってますね。疑問符がつきます。

▼玉乗りの阿形の狛犬

▼玉乗りの吽形の狛犬

▼神馬

◆◇◆曩祖八幡宮・拝殿 妻入り唐破風付きの拝殿
≪主祭神≫
応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰および天神地祇を祀る。

▼曩祖八幡宮・拝殿①

▼曩祖八幡宮・拝殿②

▼曩祖八幡宮・拝殿③

▼曩祖八幡宮・拝殿内部①

▼曩祖八幡宮・拝殿内部②

曩祖八幡宮の神紋は「右三つ巴」
「右三つ巴」は、忌宮神社と宇美八幡宮と綿津見神社と織幡神社

「左三つ巴」の神紋は
大分八幡宮、香椎宮、筥崎宮、宇佐神宮、住吉神社(福岡)、綱分八幡宮、
志賀島神社、志式神社

◆◆曩祖八幡宮・御本殿  神明造りの本殿
▼曩祖八幡宮・御本殿①

▼曩祖八幡宮・御本殿②

▼曩祖八幡宮・御本殿③

◆ご神木



◆結びの石

◆◆境内社
▼祇園宮

▼左から志賀神社、大神宮、住吉神社、水守神社

▼産乃宮

◆包丁塚

◆句碑
▼春深く 稿を起さん 心あり  (高浜虚子)

▼古さとに似し山河かな 遍路くる (星野立子)

◆◆若光稲荷神社 曩祖八幡宮境内社
▼若光稲荷神社参道入り口

▼若光稲荷のお狐様①

▼若光稲荷のお狐様②

▼若光稲荷神社参道

▼若光稲荷神社社殿①

▼若光稲荷神社社殿②

▼若光稲荷神社社殿③

体調管理の記録 2014年 【4月】

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◆体調管理の記録


2014年 【4月の記録】 

【1日(火)~2日(水)】 春期講習

【3日(木)】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
①中央アジアの旅の入金・VISA用パスポート送付

【4日(金)】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
①住吉神社 ②筥崎宮

【5日(土)】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
体重 72.75kg   血糖値(朝食前) 130    血圧139/70  脈拍66  
体脂肪率27.5%  内臓脂肪レベル13 骨格筋率30.1% BMI 25.2 体年齢58


ちょっくら気分転換

【日向神話】 「天孫族・追憶の旅」 南九州編 ハイライト

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◆4月6日(日)~7日(月)

【日向神話】「天孫族・追憶の旅」南九州編ということで、鹿児島、宮崎、熊本の神社巡りに行ってきました。
6日午前10時出発・・・7日午後9時40分福岡の自宅に帰着。
走行距離888km。アルファGTよく走ってくれます。

階段登りにも慣れてきましたし、天気にも恵まれて充実したいい旅ができました。
今回もスマホのテザリング機能とTOSHIBAのタブレット・PCのコンビが活躍してくれました。
駐車休憩時に車の中でもネットに接続できて、ありがたいものです。

▼阿蘇神社の桜

【4月6日(日)】

◆皇子原神社(宮崎県西諸県郡高原町)
皇子原神社は、霊峰高千穂峰を仰ぐ皇子原公園西の高台に鎮座。
神武天皇 幼少名 狭野尊(さののみこと)がお生まれになった産屋があったところと伝わっている。

▼御祭神 神倭伊波礼天皇(神武天皇・御幼名 狭野尊)

◆止上神社 とがみ神社(鹿児島県霧島市国分)
社記によれば、景行天皇の御宇日向の隼人が叛き天皇親から征伐された時、六所権現の霊神が大鷹となり擁護を加え、怱ち叛賊を平定されたため、その神霊を崇め祭ったという。

▼止上神社・拝殿

◆姫城稲荷神社(鹿児島県霧島市国分姫城)
第105代御奈良天皇の天文年間創建の姫城阿多石鎮座・天之御中主神社と、第119代光格天皇の寛政年間創建の姫城竹下鎮座・貴船神社が洪水流失のため合祀許可され、その後明治45年2月7日第108代御水尾天皇の寛永年間創建の姫城西瓜川原鎮座・稲荷神社が天降川の度重なる洪水浸水のため合祀許可になり、明治45年5月30日社名を稲荷神社と改称、平成9年3月改築、現在に至る。

▼姫城稲荷神社・参道

▼姫城稲荷神社・社殿と日当山(ひなたやま)岩壁。
岩壁の右上方にはに日の丸の旗が揚げられていた。

◆韓国宇豆峯神社 からくに宇豆峯神社 (鹿児島県霧島市国分上井)
「続日本紀」によると、和銅7年(714)、すなわち大隅国設置の翌年に、豊前國から200戸(約5000人)の民が隼人を教導するため移住させている。そのときに、韓国神も移動して建立したものと伝えられている。
「宇佐記」によると、「欽明天皇32年(571)、豊前国宇佐郡菱形地の上小椋山に祭られたのを当地宇豆峯山頂に遷座され、さらに国司の進言により永正元年(1504)、現在の地に奉遷した」との記録がある。

▼韓国宇豆峯神社の鳥居と社殿

▼韓国宇豆峯神社

◆伊邪那岐神社 (鹿児島県霧島市牧園町)
最初、妙見崎に鎮座されていた。その後、今野社地から南西約109mのところに遷座になったが、天正13年(1585)の夜の大雨で社殿が砂石に埋まったので現在地に移したという。
この神社は元は妙見神社と呼ばれていたが、明治の初め、廃仏毀釈神仏分離の趣旨で伊邪那岐神社と称したものと思われる。

▼伊邪那岐神社・参道

▼伊邪那岐神社・拝殿

【4月7日(月)】

◆和気神社 わけ神社 (鹿児島県霧島市牧園町)
祭神である和気清麻呂は、神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮神託事件に関連して大隅国へ遠島となった。後に名誉回復されて京へ戻っている。
嘉永6年(1853年)、鹿児島藩第11代藩主島津斉彬が日向国・大隅国を視察した折に、この地に松を手植えし、側近の八田知紀に命じて和気公の遺跡調査を行わせた。この結果、この地が和気公の配流地であったことが確定した。

▼和気神社の鳥居と参道

▼和気神社の『護王大明神』の御眷属の狛「猪」

▼和気神社・本殿

▼和気神社の日本一の大絵馬 縦8.3m、横12.5m

▼参道前の滝見台から眺めた「犬飼の瀧」

◆新田神社(鹿児島県薩摩川内市)
新田神社は、神亀山(高さ70メートル)の山頂にあり、ニニギノミコトをまつる神社。かつて、薩摩国一の宮として呼ばれた風格を今でも残している。また、隣接している可愛山陵は、神代三山陵の一つにあげられ、明治7年7月にニニギノミコトの墳墓と指定され宮内庁直轄で管理されている。
大正9年(1920年)3月30日・昭和天皇(当時の皇太子)参拝、昭和37年(1962年)今上天皇(当時の皇太子)及び皇后美智子(当時の皇太子妃)参拝、など皇族の参拝は9回にも及んでいる。

▼300段を超える新田神社の参道の石段

▼新田神社・拝殿

▼新田神社・拝殿の彫刻

▼「邇邇芸尊陵」の指定を受けている可愛山陵(えのやまのみささぎ)  
宮内庁直轄で管理されている。

▼可愛山陵(えのやまのみささぎ)の大楠

▼イザナギ河童とイザナミ河童の「河童大明神」

◆天岩戸神社・東本宮 (宮崎県西臼杵郡高千穂町岩戸)
天岩戸神社は岩戸川を挟んで「東本宮」と「西本宮」とが鎮座している。
天岩戸神社・東本宮は天岩戸伝説でお隠れになった天照皇大神が岩戸よりお出ましの際、
思兼尊様が大神様の御手を取り、この東本宮の土地にお鎮まり願ったとされる。
岩戸川の対岸の参拝客の多くが訪れる天岩戸神社西本宮は岩窟(天岩戸)を神体とする遥拝所的性格が強いが、天岩戸神社・東本宮は天照皇大神を祀っている。

▼岩戸川の渓流

▼天岩戸神社・東本宮参道前にて

▼天鈿女命アメノウズメの像が迎えてくれる。

▼天岩戸神社・東本宮参道

▼天岩戸神社・東本宮

▼天岩戸神社・東本宮・社殿

◆天真名井(あまのまない)
ニニギノミコトがご降臨の時、この地に水が無く、天村雲命が再び高天原に上がられ、天真名井の水種を移されたと伝えられており、御神水として信仰されている。
春の高千穂神社、秋のくしふる神社例祭ではお旅所として神輿が安置され、神楽が奉納されている。
宮崎の巨樹百選にも指定された大ケヤキの根元にこんこんと清らかな水が湧き出しており、高千穂峡の「真名井の滝」の水源にもなっているという。

▼宮崎の巨樹百選にも指定されている天真名井の大ケヤキ  
樹齢1300年、幹周6.8m、樹高16m

◆二上神社 (宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町)
日本書紀にいう天孫降臨の槵日二上峯を神体とし社殿には冠帯男形一女形一座を祀る。
御社創建は醍醐天皇昌泰元年(898)と社伝にあり、文献では永正八年(1511)の棟札に「天神七代の末 陰陽之二君 伊弉諾尊 伊弉冉尊の二神を祀り 大檀那大神朝臣兵部大輔右武 藤原左近大夫廉昌 山之伊賀守治次十社宣命左衛門太郎乘吉大神朝臣右武建立也」とある。
本殿は、総ケヤキ造りの三間社流造。

▼二上神社・参道

▼二上神社・拝殿の彫刻

▼二上神社・本殿の彫刻

▼二上神社・本殿の彫刻

◆阿蘇神社 (熊本県阿蘇市一の宮町)
孝霊天皇9年の創建、肥後国一の宮、旧官幣大社。阿蘇の開拓祖、健磐龍命(たけいわたつのみこと)をはじめ十二神をまつる由緒ある神社で、末社は全国500社を超える。
一の神殿・二の神殿・三の神殿・楼門・神幸門・還御門の6棟は国の重要文化財に指定されている。
また、楼門は鹿嶋市の鹿島神宮、福岡市東区の筥崎宮とともに日本三大楼門の一つに数えられる。

▼「日本三大楼門」の一つの阿蘇神社・楼門

▼阿蘇神社

▼阿蘇神社

【椿八幡宮】 神功皇后が御剣の鍔をこの地に奉納

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【椿八幡宮】 つばき八幡宮              福岡県飯塚市椿

神功皇后が新羅、百済、高句麗よりの帰途この地に立ち寄られ、その折り堅い木で作られた御剣の鍔(つば)を奉納され、日本の平和と繁栄を祈願された所と伝えられており、これにより「ツバキ」(椿)の名が起ったといわれている。
現在も社務所の前に「椿の木」が植え継がれて大切な記念として守られている。

※鍔(つば)とは刀剣の柄と刀身との間に挟んで、柄を握る手を防護する部位。

▼椿八幡宮の「椿」

また、社殿には昔の農耕作業の様子が描かれた、たくさんの絵馬が奉納されている。
毎年10月、昔から収穫感謝の祭りとして「獅子舞」が行われ、最終日の農耕祭事として神宮による夜神楽が演じられる。


【御祭神】
品陀別命 (第十五代應神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、武内宿祢命

【祭礼日】1月1日・歳旦祭、10月第2土曜日・秋季例祭
【境内社】安藝殿宮、八幡稲荷宮

【由 緒】
 神功皇后が新羅、百済、高句麗よりの帰途この地に立ち寄られ、その折り堅い木で作られた御剣の鍔を奉納され、日本の平和と繁栄を祈願された所と伝えられており、これにより「ツバキ」(椿)の名が起ったといわれています。
 当社は、寛平9年(897)勅命により当時九州の政治外交を司った大宰府政庁が創建し、穂波新宮と云われ、椿庄の惣社として氏子はもとより広く朝廷幕府の崇敬厚く、政庁の官人等も礼を尽くして参拝していたと云われています。これが「椿八幡宮」の起こりです。
 その後、幾度かの再建、再興がなされ現在に至っていますが最盛時には穂波郡全村を管轄していたと言い伝えられています。

◆◆4つの鳥居と参道

◆一の大鳥居  県道60号線沿いに立つ「史跡穂波新宮」の社号標碑

◆二の鳥居  一の大鳥居から西に100mの位置にある。


▼壱の阿形の狛犬

▼壱の吽形の狛犬

◆三の鳥居


▼弐の阿形の狛犬

▼弐の吽形の狛犬

◆四の鳥居



◆◇◆椿八幡宮・境内

▼注連柱と参道

▼境内入口の構えの阿形の狛犬 (大正13年(1924)1月26日建立)

▼境内入口の起立の吽形の狛犬 (大正13年(1924)1月26日建立)

▼神馬

▼「左三つ巴」の神紋を着けた神馬

椿八幡宮の神紋は、香椎宮、筥崎宮、宇佐神宮、住吉神社(福岡)、綱分八幡宮、
大分八幡宮、志賀島神社、志式神社と同じ「左三つ巴」

「右三つ巴」は、忌宮神社と宇美八幡宮と綿津見神社と織幡神社

▼拝殿前の構えの阿形の狛犬 (昭和11年(1936)7月吉日建立)

▼拝殿前の玉取・蹲踞の阿形の狛犬 (昭和11年(1936)7月吉日建立)

◆◇◆椿八幡宮・拝殿 唐破風付きの落ち着いた拝殿

【御祭神】
品陀別命 (第十五代應神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、武内宿祢命

▼椿八幡宮・拝殿①

▼椿八幡宮・拝殿②

▼珍しい円形の注連飾り

▼「八幡宮」の神額

◆拝殿・内部


▼奉納されている絵馬①

▼奉納されている絵馬②

◆◇◆椿八幡宮・御本殿  優美な流造りの御本殿
▼椿八幡宮・御本殿①

▼椿八幡宮・御本殿②

▼椿八幡宮・御本殿③

▼御本殿の彫刻①

▼御本殿の彫刻②

▼御本殿の彫刻③

◆ご神木の「椿」
▼ご神木の「椿」①

▼ご神木の「椿」②

▼ご神木の「椿」③

▼ご神木の「椿」④


▼椿八幡宮近くの花たち



【天道神社】 源満仲が大将陣で天照大神に戦勝を祈願

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【天道神社】 てんとう神社             福岡県飯塚市天道

天道神社はJR九州の天道駅(てんとうえき)の南西約100m、県道473号線に面して鎮座している。

▼天道神社の参道と拝殿

【源満仲と大将陣と天道】
飯塚にある大将陣山(標高112m)は天慶4年(941)源満仲が藤原純友の反乱討伐の勅命を受け、当山に陣を置き、「天道」の加護により亡ぼそうと西麓に日天子(にってんし)を勧請し祈ったので、大将陣山と称したと伝えられている。
大将陣公園内にはおよそ2,500本のソメイヨシノが植えられており、毎年4月第1日曜日には桜まつりが開催され多くの花見客で賑わう。

【天道】(てんとう)
日本では、一般的にお天道様(おてんとさま)とも言うように、太陽神としても知られる。太陽は神として祀られたのである。信仰心が伴わなくても太陽を「お日様」と呼び、お月様、お星様と同様に自然崇拝の対象であった。
天照大神は天道の神格化であり、仏教の大日如来とも習合した。また対馬の天道信仰においては日の神の子として、天童(てんどう)という言葉もある。
また日本人はてんとうむし(天道虫と書く)を太陽に見立てた。

地名では、名古屋市天白区天道、福岡県飯塚市天道、鹿児島県出水郡長島町の天道山、山形県天童市などがある。

【天道神社・由緒】
古老よりの伝えによれば、61代朱雀天皇の承平・天慶の御代、平将門藤原純友の反乱(承平・天慶の乱)の際、源満仲勅命を受けて先ず将門を東国にて討ち、のちに純友を現在の大将陣に対陣し決戦を挑む。満仲勅命を奉じ朝敵を討ち、祖神の加護を信じ戦うべしと部下に命じて、大将陣の麓に祀る天照大神に祈願し、全軍玉串を襟にさして戦い撃滅するを得たりと言う。即ち、この頃天道神社がありしものと考えられる。今から約千年以上前のことなり。

【天道神社・御祭神】
大日靈貴命(おおひるめむちのみこと・天照大神)、合祀:素盞嗚命、菅原道真公

【天道神社】
◆◇◆鳥居と参道

◆一の鳥居

◆二の鳥居

◆三の鳥居

▼三の鳥居の「天道宮」の扁額


◆「空飛ぶ」阿形の狛犬


◆「はにかむ」吽形の狛犬



▼拝殿脇の旧い阿形の狛犬

▼拝殿脇の旧い吽形の狛犬

◆◇◆天道神社・拝殿
【天道神社・御祭神】
大日靈貴命(おおひるめむちのみこと・天照大神)、合祀:素盞嗚命、菅原道真公





◆拝殿の彫刻





◆◇◆天道神社・御本殿


◆本殿の彫刻







▼天道神社の拝殿と本殿

◆ご神木


【老松神社】  オオクニヌシとスクナビコナが逗留した地

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◆老松神社  (おいまつ神社)             福岡県飯塚市阿恵

▼老松神社

老松神社といえば、地禄神社、宝満神社とともに、福岡の地の各地に見られる神社であるが、老松神社がある場所はかつてオオクニヌシとスクナビコナが諸国巡回の折に逗留した地であるといわれるらしい。
飯塚周辺にも老松神社が多いが、これは神仏習合の時代に大宰府天満宮の別当寺だった安楽寺の寺領が各地にあり、その場所に老松神社が祀られることが多かったからのようだ。
この阿恵の老松神社は筑豊本線・上穂波駅の東約150mに鎮座している。

【スクナビコナ】
スクナビコナ(スクナヒコナとも。表記は少名毘古那、須久那美迦微、少彦名、少日子根など。)は、日本神話における神。
『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。

大国主の国造りに際し、波の彼方より天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)(=ガガイモの実とされる)に乗って来訪した。 『古事記』によれば、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、オホナムチ(大己貴)大神の命によって国造りに参加した。『日本書紀』にも同様の記述があるが、『記』・『紀』以外では『上記(ウエツフミ)』にも登場している。 オホナムチ同様多くの山や丘の造物者であり、命名神である。悪童的な性格を有するとも記述される(『日本書紀』八段一書六)。のちに常世国へと渡り去る。

スクナビコナは国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つ。 酒造に関しては、酒は古来薬の1つとされ、この神が酒造りの技術も広めた事と、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えた時の歌にも「少名御神」の名で登場する為、酒造の神であるといえる。

◆飯塚・穂波川周辺の風景

▼穂波の田園風景

◆老松神社◆
◆◇◆鳥居と参道

◆一の鳥居

▼一の鳥居と二の鳥居

▼一の鳥居の「「老松大明神」の扁額

▼参道脇の玉を含んだ阿形の狛犬

▼参道脇の吽形の狛犬

◆二の鳥居

▼二の鳥居の「「老松神社」の扁額

▼二の鳥居と境内

▼灯篭と参道

◆猿田彦大神
【猿田彦大神】
邇邇芸尊(ニニギノミコト)が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。そこで天照大神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をしようと迎えに来たのであった。

邇邇芸尊らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸尊は天宇受売神(アメノウズメ)に、その名を明らかにしたのだから、猿田彦を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにと言った(『日本書紀』では、猿田彦が天鈿女命(アメノウズメ)に自分を送り届けるように頼んだとなっている)。そこで天宇受売神は「猿女君」と呼ばれるようになったという。猿田彦は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。

猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村、現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ死ぬ。この際、海に沈んでいる時に「底どく御魂」、猿田彦が吐いた息の泡が昇る時に「つぶたつ御魂」、泡が水面で弾ける時に「あわさく御魂」という三柱の神が生まれた。

『倭姫命世記』(神道五部書の一つ)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。

▼猿田彦大神①

▼猿田彦大神②

◆天神様のお使い・臥牛の像

【菅原道真(天神様)と牛との関係】
菅原道真と牛との関係は深く・・・
「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。
これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。

◆◇◆老松神社・拝殿






◆◆老松神社・本殿





◆◆神木



【庚申社】 猿田彦大神を主祭神として祀る

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◆庚申社 (こうしんしゃ)                        福岡県直方市山部

編集中

庚申社は福岡県直方市山部にある神仏習合で祀る神社。
猿田彦大神を主神として元文2年(1737年)2月に唐津の庚申神社より現在地に鎮座した。

境内には庚申の「申」と猿田彦大神の「猿」を結び付けられたものと考えられ、庚申信仰の三尸(さんし)説「見ざる聞かざる云わざる」等 の石で彫られた「さる」が数百体ある。

≪祭神≫
神道では猿田彦大神
仏教では青面金剛

【庚申】 (かのえさる)
庚申(かのえさる)の日(60日に一度)の夜に「戸(し)」という虫が人間が寝ている間に入ってきて、その人間の行状を洗いざらい天上の神に話をしてしまいます。そこで、人々は集まりお供えをして祭事をし、一晩中寝ないで飲み食いをして過ごしました。

『見ざる聞かざる云わざる』     <庚申社HPより>
◆庚申社 


▼壱の阿形の狛犬

▼壱の吽形の狛犬

▼弐の拝殿前の阿形の狛犬

▼弐の拝殿前の吽形の狛犬

◆◇◆庚申社・拝殿・本殿
≪祭神≫
神道では猿田彦大神   仏教では青面金剛




◆◆猿田彦大神
【猿田彦大神】
邇邇芸尊(ニニギノミコト)が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。そこで天照大神と高木神は天宇受売命(アメノウズメ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をしようと迎えに来たのであった。

邇邇芸尊らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸尊は天宇受売神(アメノウズメ)に、その名を明らかにしたのだから、猿田彦を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにと言った(『日本書紀』では、猿田彦が天鈿女命(アメノウズメ)に自分を送り届けるように頼んだとなっている)。そこで天宇受売神は「猿女君」と呼ばれるようになったという。猿田彦は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。

猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村、現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ死ぬ。この際、海に沈んでいる時に「底どく御魂」、猿田彦が吐いた息の泡が昇る時に「つぶたつ御魂」、泡が水面で弾ける時に「あわさく御魂」という三柱の神が生まれた。

『倭姫命世記』(神道五部書の一つ)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。

日本書紀』には、天宇受売神は胸乳を露わにし裳帯(もひも)を臍の下に垂らしたとあるので、性的な所作をもって相対したことになる。神話には書かれていないが、二神が結婚したと民間では伝えられているのは、この記述によるものと考えられる。

「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とする説がある。
「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神であったとする説もある。

その異形な風貌から赤鼻の天狗とされるが、仏教、特に密教系の烏天狗と混同されやすい。
現代においても小説や漫画といった創作物の登場人物として人気があり、例を挙げれば手塚治虫の『火の鳥』シリーズには、「猿田」もしくは「サルタヒコ」という人物が多く登場する。それらの多くが、鼻が大きいという身体的特徴を持っている。

◆猿田彦(サルタヒコ)と天鈿女命(アメノウズメ)
宮崎県の高千穂町の荒立神社の社伝に因れば、猿田彦命の先導で当地に天孫降臨が行われ、猿田彦命は当地で降臨に供奉した天鈿女命と結婚して当地に住む事となった。しかし、この結婚が急であったために切り出したばかりの荒木で宮居を建てなければならないとの言い伝えが残った。後世この2柱を祀る神社を創祀する際にその故事に因んで社殿を白木造とした事から「荒建宮」と称したと伝える。「立」字は「建」を変えたもの。なお、猿田彦命は縄文人で天鈿女命は渡来人である弥生人であり、この2柱の婚姻を国際結婚と見る説もある。


【多賀神社】 伊邪那岐大神・伊邪那美大神の二神を祀る

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【多賀神社】             福岡県直方市直方
編集中

多賀神社は、JR筑豊本線の直方駅から南に約500mの位置にある小高い丘に鎮座している。坂を下がったところに庚申社もある。
丘の上からはJR福北ゆたか線(筑豊本線)が走り直方駅や立ち並ぶ町並みが見える。

◆直方市
直方市は筑豊を構成する自治体の一つで、直鞍地区の中心都市である。飯塚市、田川市と並んで筑豊三都に挙げられる。筑豊で石炭が見つかり、明治時代から昭和30年代までは石炭産業で栄えた。直方は、筑豊地方の石炭の集積地と問屋的な機能の役割を果たしていた。
古くは真言宗の名刹東蓮寺があったので東蓮寺とも呼ばれたが、室町期に兵火で寺は焼失する。
のち、後醍醐天皇の皇子の尊良親王(たかよししんのう / たかながしんのう)が城を築いて少弐氏と戦ったため“皇方(のうがた)”と呼ばれるようになったのが地名の起源と云う。

直方は元大関魁皇の地元でもある。平成13年10月に篠栗駅-黒崎駅間が電化された際には、特急「かいおう」の運行が開始され話題になった。

◆多賀神社・御由緒
壽命の神、鎮魂・厄除の神として有名な多賀神社は、
伊邪那岐大神(男神)と伊邪那美大神(女神)の二柱の神をお祀りしている。
古くは日ノ少宮・日若宮と称之、奈良朝時代には妙見大明神多賀大神と称えたこともある。。元禄5年(1692年)に妙見神社から社名を多賀神社に改めた。

【多賀神社・御由緒】

御祭神 伊邪那岐大神・伊邪那美大神

壽命の神多賀大神は、天照大神の御両親にて、御社は古く日の若宮と稱す。奈良朝の養老三年に再建し、天平八年妙見大明神を稱へた。
正平十三年懐良親王願主となり、菊池武光資を献じ、葉室惟言改築す。
黒田藩政の時、長清社殿を南の山上より今の地に遷し、元禄五年宮司青山敏文は禁裡に願ひ、もとの多賀大神に改め、御神馬渡御の御神幸を復興す。
維新後明治三十五年及び正和十四年境内を拡張し、本殿以下を改築す。
春季大祭 四月十三日・十四日・十五日
秋季大祭 十月十三日・十四日・十五日
美しめ縄かけて祈らむ、いと長き、よはひを守る多賀の社に。正三位有功

◆◆鳥居と参道


▼壱の玉乗りの阿形の狛犬

▼壱の玉乗りの吽形の狛犬

▼弐の阿形の狛犬

▼弐の吽形の狛犬

▼神馬

▼臥牛

▼手水舎

◆◆多賀神社・神門







【藤姫稲荷神社】 宇迦之御魂大神を藤姫稲荷大神の神名で祀る

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【藤姫稲荷神社】              福岡県直方市直方

≪祭神≫
藤姫稲荷大神 (宇迦之御魂大神)

日本書紀には、伊邪那岐・伊邪那美二神の御子神であり当地では宇迦之御魂大神(倉稲魂大神)を藤姫稲荷大神の神名で御祭神として祀る独自の神社です。

 昔から多賀大神の眷族として、この霊地(日若の山)の地主神と称えられ、多賀大神の奥宮の霊力を受けて、その荒魂としての藤姫稲荷大神の御神威は非常に高く、生活の根源である五穀・食物を司り、家運隆昌と商売事業の繁栄の神として広く信仰を集めてきました。

約束事には厳しい代わりに真摯な願い事は必ず適えて下さる尊い神として、感謝する人々の信仰は篤く、
「神は敬うことによりその威を増す」と崇敬を集めています。・・・・『多賀神社HP』より

◆藤姫稲荷神社の鳥居と参道





◆藤姫稲荷神社の朱の鳥居





◆藤姫稲荷神社のお狐さま


◆◆藤姫稲荷神社


【フェルマーの最終定理】

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気分転換に【フェルマーの最終定理】の話を・・・・

フェルマーの最終定理(Fermat's Last Theorem)とは、3 以上の自然数 n について、
となる 0 でない自然数 (x, y, z) の組が存在しない、という定理のことである。
フェルマーの大定理とも呼ばれる。

フェルマーが驚くべき証明を得たと書き残したと伝えられ、長らく証明も反例もなされなかったことからフェルマー予想とも称されたが、360年後にアンドリュー・ワイルズによって完全に証明され、ワイルズの定理あるいはフェルマー・ワイルズの定理とも呼ばれるようになった。

  

【近代的アプローチへ】
[モジュラー形式]
ポアンカレは複素平面上の関数についての研究から、保型形式およびそのアイディアをさらに展開したモジュラー形式を案出する。

[モーデル予想]
ファルティングスによるモーデル予想の解決(1983年)により、フェルマー方程式 xn + yn = zn が整数解をもつならば(つまりフェルマー予想が誤りならば)その解の個数は本質的に有限個しかないことが証明される。この「有限個」が「実は 0 個」であることが示されればフェルマー予想は証明できたことになるが、この方向からの絞り込みには行き詰まりが指摘されていた。ともあれ、この時点でフェルマー予想が「ほとんど全ての場合について正しい」ことが判明したと言うことはできた。

[谷山・志村予想]
1955年9月、日光で開催された整数論に関する国際会議で、谷山豊が提出した幾つかの「問題」を原型とする数学の予想。そこでは楕円曲線とモジュラー形式の間の深い関係が示唆されており、後に志村五郎によって定式化された。「すべての楕円曲線はモジュラーである」という、発表当時は注目を引かなかったこの谷山・志村予想(今となっては証明されているが)が、のちにフェルマー予想の証明に大きな役割を果たすこととなる。

実はこの前年の1954年、ある保型形式に関するラマヌジャン予想の一部をアイヒラーが証明していた。そこでは「解析的ゼータ=代数的ゼータ」が示されており、谷山・志村予想の最初の実例と呼べるものだった。

このラマヌジャン予想→谷山・志村予想→ラングランズ予想→超ラングランズ予想という一連の流れ(ゼータの統一)は数論の中心的テーマの1つとなっている。

[フライ・セール予想]
1984年にフライはフェルマーの最終定理に対する反例 an + bn = cn からはモジュラーでない楕円曲線(フライ曲線):
y2 = x(x − an)(x + bn)
が得られ、これは谷山・志村予想に対する反例を与えることになるというアイディアを提示。セールによって定式化されたこの予想はフライ・セールのイプシロン予想と呼ばれ、1986年にケン・リベットによって証明された。

これらの経過は以下のように整理することができる。
1.まず、フェルマー予想が偽である(フェルマー方程式が自然数解をもつ)と仮定する。
2.この自然数解からは、モジュラーでない楕円曲線を作ることができる。
3.谷山・志村予想が正しいならば、モジュラーでない楕円曲線は存在しない。
4.矛盾が導かれたので、当初の仮定が誤っていることとなる。
5.したがって、フェルマー予想は真である。(背理法)

つまり、谷山・志村予想が証明されたならば、それはフェルマーの最終定理が証明されたことをも意味するのである。

【最終的解決】
プリンストン大学にいたイギリス生まれの数学者アンドリュー・ワイルズは岩澤主予想(en:Iwasawa main conjecture)を解決するなどして、元々数論の研究者として有名な人物であった。彼は10歳当時に触れたフェルマー予想に憧れて数学者となったが、プロとなってからは子供時代の夢は封印し、フェルマー予想のような孤立した骨董品ではなく主流数学の研究に勤しんでいた。ところが1986年、ケン・リベットがフライ・セール予想を解決したことにより、フェルマー予想に挑むことは、主流数学の一大予想に挑むことと同義になってしまった。かつての憧れだったものが、今や骨董品どころか解かずには済まされない中心課題の1つになったのである。ワイルズはこのことに強い衝撃を受け発奮、正にフェルマー予想の解決を目的として、他の研究を全て止めて谷山・志村予想に取り組むこととなった。ただしこの際、彼は人々の耳目を集め過ぎることを懸念して、表面的には未発表の研究成果を小出しにすることで偽装し、谷山・志村予想の研究は秘密裏に遂行することとした。

ワイルズは、代数幾何学(特に楕円曲線と群スキーム)や数論(モジュラー形式やガロア表現、ヘッケ環、岩澤理論)の高度な道具立てを用いて証明を試みたが、類数公式の導出に当り岩澤理論を用いる方向では行き詰まってしまった。そこでコリヴァギン=フラッハ法(ヴィクター・コリヴァギンとマティアス・フラッハの方法)に基づくよう方針転換し、最後のレビュー段階でプリンストンの同僚ニック・カッツの助けを得るまで、細部に至るまでの証明を完璧な秘密のうちにほぼすべて独力で成し遂げた(ここまでで7年が経過していた)。彼がケンブリッジ大学で1993年の6月21日から23日にかけて3つの講義からなるコースで証明を発表したとき、聴衆は証明に使われた数々の発想と構成に驚愕した。

ただし、その後の査読において、ワイルズの証明には一箇所致命的な誤りがあることが判明した。この修正は難航したが、ワイルズは彼の教え子リチャード・テイラーの助けを借りつつ、約1年後の1994年9月、障害を回避することに成功した。ワイルズ自身、その時の瞬間を「研究を始めて以来、最も大事な一瞬」と語っている。1994年10月に新しい証明を発表。1995年のAnnals of Mathematics誌において出版し、その証明は、1995年2月13日に誤りがないことが確認され、360年に渡る歴史に決着を付けた。なお、証明の過程では、まずはコリヴァギン=フラッハ法を用いたが、それでは不十分だと判明したので、以前に採用してから放棄していた岩澤理論を併用することで、最終的な証明が完成した。

【筥崎宮】 日本三大八幡宮であり、日本三大楼門を構える

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【筥崎宮】 (はこざきぐう)           福岡県福岡市東区箱崎
編集中

筑前国一宮。 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
別称として筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)とも呼ばれる。

▼筥崎宮

筥崎宮の「筥」の字は円筒状の容器を意味する「筥」が正字であり「箱」ではない。
神功皇后が応神天皇を出産した際、胞衣(えな)を「筥」に入れて納めたことに由来する。
ただし同宮が在する地名・駅名などは筥崎宮の「筥崎」では筥崎八幡神に対して恐れ多いという理由から「箱崎」と表記する。

京都府八幡市の石清水八幡宮、大分県の宇佐神宮とともに日本三大八幡宮の一つ。

◆【日本三大八幡宮】 
石清水八幡宮(京都府)、宇佐神宮(大分)、筥崎八幡宮(福岡)

延喜21年(921年)6月21日に八幡神の託宣があり、筑前国穂波郡の大分宮(だいぶぐう)を玄界灘に面した土地に移したのに始まる。延長元年(923年)に現在地に遷座。『延喜式神名帳』には「八幡大菩薩筥崎宮一座」と記載され、名神大社に列している。

元寇の際に亀山上皇が「敵国降伏」を祈願し、楼門に「敵国降伏」の扁額が掲げられた。
以来、海上交通・海外防護の神として信仰されている。
この楼門は日本三大楼門の1つ。

◆【日本三大楼門】 
鹿島神宮(茨城)、 阿蘇神社(熊本)、 筥崎八幡宮(福岡)

主祭神 応神天皇
配祀神 神功皇后  玉依姫命

◆◇◆鳥居と参道
海岸より続く参道は800m程もあり、まずその参道の長さに驚く・・・・大鳥居から参道が延々と続き、境内までは徒歩で10分ほど。

▼国道沿いにある巨大な「筥崎鳥居」



【住吉神社】 (博多) 「日本三大住吉」で住吉三神を祀る

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【住吉神社】 (博多)          福岡県福岡市博多区住吉

編集中

  住吉神社は、博多駅の東側800m程の辺り、博多の街中に鎮座している。

式内社(名神大)、筑前国一宮で、旧社格は官幣小社。
大阪の住吉大社、下関の住吉神社、と共に日本三大住吉とされている。
全国に約2000社ある住吉神社の始源とされ、開運除災・航海安全・船舶守護の神として信仰を集め、和歌の神としても崇め敬われてきた。

◆【日本三大住吉】
住吉大社 - 大阪府大阪市住吉区住吉
住吉神社 (下関市) - 山口県下関市一の宮住吉
住吉神社 (福岡市) - 福岡県福岡市博多区住吉

【住吉神社・案内】
当社は昔の那の津の河口にあたり、社前の天竜池はその河口の名残である。住吉三神は伊弉諾尊が禊祓された時に御出現になったという伝説から当社は全国的にも九州でももっとも古い神社の一つと数えられる。住吉大神をお祀りする「住吉本社」「日本第一住吉宮」等と記されている。
また、当社は平安時代以降「筑前國一之宮」として朝野の厚い崇敬を受けた。

ご神徳は開運除災や航海・行路安全、和歌の神として知られている。また、漁業関係者等の信仰も厚く、「住吉丸」という舟の多い事もそのためである。

現在の本殿は、福岡藩初代藩主黒田長政が元和9年(1623)に再建したもので、仏教伝来前の古代建築様式を伝える。檜皮葺きで直線的な独特の屋根が特徴である「住吉造」として、国の重要文化財に指定されている。
神宝としては、銅剣・銅戈11口(県文化財)や勅撰松花和歌集1巻、古文書、博多古地図等がある。また、昭和13年建造の能楽殿は、西日本有数の舞台として広く親しまれており、現在は市文化財に指定されている。

【祭神】
底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)。

◆住吉三神◆
底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称である。海の神、航海の、また和歌の神とされる。

伊邪那岐尊と伊邪那美命は国生みの神として大八島を生み、またさまざまな神を生んだが、伊邪那美命が火之迦具土神を生んだときに大火傷を負い、黄泉国(死の世界)に旅立った。その後、伊邪那岐尊は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとするが果たせず、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った。このとき、瀬の深いところで底筒男命が、瀬の流れの中間で中筒男命が、水表で表筒男命が、それぞれ生まれ出たとされる。

◆◇◆鳥居と参道










【住吉神社】(博多) (2)  宇賀神社、稲荷神社、恵比寿神社など

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【住吉神社】 (博多)          福岡県福岡市博多区住吉

▼住吉神社・社殿

▼住吉神社・境内

◆◆宇賀神社(稲荷神社)
本社に付属し、その祭神と縁の深い五穀豊穣、商業の神「宇賀乃魂大神(うがのみたまのおおかみ)」を祀った神社。
ご祭神は宇賀乃魂大神(うがのみたまのおおかみ)

【稲荷神社初午祭】
和銅4年2月7日(2月の初の午の日)、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が京都の稲荷山に影向なされたことに由来。古くから各地の稲荷神社への参詣者が大変多く、当社境内の稲荷社は霊験殊に灼かで、当日早朝より商売繁盛・家内安全等の祈願祭を斎行し、稲荷神社御縁の「霊験の杉の葉金幣(開運招福)」を授与している。

▼一夜の松と宇賀神社

▼宇迦之御魂神の眷属のお狐さま①

▼宇迦之御魂神の眷属のお狐さま②

▼宇賀神社の鳥居

▼宇賀神社

◆◆荒熊稲荷神社と白髭稲荷神社
宇賀神社と背中合わせに鎮座しているのが、荒熊稲荷神社と白髭稲荷神社の稲荷神社

▼稲荷神社の鳥居

▼稲荷神社のお狐さま①

▼稲荷神社のお狐さま②

▼稲荷神社の拝殿

◆稲荷神社の朱の鳥居


◆住吉神社・唐門


◆三日恵比寿へ




◆◆三日恵比寿神社
本社に付属し、その祭神と縁の深い幸運、航海の神「恵比須大神(えびすのおおかみ)」を祀った神社

▼三日恵比寿神社の手水舎

▼三日恵比寿の由来

▼三日恵比寿神社①

▼三日恵比寿神社②

▼三日恵比寿神社③

▼三日恵比寿神社・拝殿①

▼三日恵比寿神社・拝殿②

▼三日恵比寿神社・拝殿③

▼三日恵比寿神像の御利益

▼恵比寿さま

◆神池(功徳池)
三日恵比寿神社の隣にある神池(功徳池)


◆◆少彦名神社
表参道の左にある少彦名神社(スクナヒコナ神社)
本社に付属し、その祭神と縁の深い酒造、薬業の神「少彦名命(すくなひこなのみこと)」を祀った神社



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