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【神武天皇社】 神武天皇東征時の滞在地「岡田宮」跡とされる。

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【神武天皇社】
【鎮座地】 福岡県遠賀郡芦屋町正門町 
【御祭神】 神武天皇

【御由緒】
神武天皇社の歴史は古く、「古事記」には「岡田の宮」と称され、「神武天皇が1年余り滞在された」と記載されている。「日本書紀」にも記載があり、この頃から里人が社殿を建立し祀っていたという。 幾度も兵火で焼失したが、延享3年(1746年)に再建され、大正11年(1922年)には県社に昇格した。
昭和17年(1942年)には、社用地が陸軍飛行場として徴用されたため、現在地に移転させられた。昭和20年(1945年)、空襲により社殿が焼失したため、御神体は産土神の岡湊神社に遷された。
平成12年(2000年)には伊勢神宮より御用材を受け、社殿が再建された。

      ▼神武天皇社の位置

神武天皇社は遠賀川河口の芦屋町正門町の航空自衛隊芦屋基地に隣接したところに鎮座している。
芦屋小学校の南門の近くの細い道から入っていける。

芦屋は古くには蘆屋と書き、筑前国続風土記は「蘆屋こそが神武天皇が東征のおり入った岡湊(おかのみなと)である」としている。

「古事記」神武天皇東征の条に、「筑紫の岡田宮に一年座しき」、日本書紀の同条には「筑紫国の岡水門に至りたまふ」とあり、、芦屋が岡田宮、岡水門(おかみなと)の地であり神武東征時の軍船を集め給いし行宮の霊跡とも伝えられている。

わが母校の東筑高校の校歌(作詞は国学院大学教授の折口信夫(歌人、釈迢空)、作曲は「海行かば」の作曲者である信時潔)の一番に、遠賀の水門(おかのみなと)という部分があるが、高校のときには、何も考えず歌っていたが、これは「おかのみなと」、つまり神武東征時の軍船を集め給いし岡水門(おかみなと)=岡湊のことをいっていたのかと・・・

【東筑高校の校歌】

 一、
    筑紫の国の 国の崎 とほく霞みて、海に入る

    遠賀の水門 (おかのみなと)も 望むべし 目翳をかざせ 汐境

    響灘 玄海の波 澄みわたる 朝の幻

    馴れ馴れて 海の若人

    吾こそは 洋の独り子 吾らかく 若々し

    身は健かに 気宇ひろく 筑紫の海の如 あらむ


▼神武天皇社

▼神武天皇社の扁額には「神武宮」とある


▼社殿の前の「由緒」の説明
 
【神武天皇社案内板の記載】
神武天皇社
  (神日本磐余彦天皇)
平成十二年二月八日(皇紀二千六百六十年)遷座祭
神武天皇の御分霊を奉斎す。
御神殿の材料は伊勢神宮よりの撤下材を拝受使用。

昭和二十年六月米軍の焼夷弾により社殿は焼失し、終戦後、宗教法人となり
御神体は芦屋の産土神、岡湊神社に奉斎し今猶当社にて祭祀は続けられています。
   連絡先 芦屋町船頭町
   岡湊神社社務所223-0216

◆神武天皇社・鳥居と参道の石段


◆神武天皇社・境内


▼狛犬と社殿

▼阿形の狛犬

▼吽形の狛犬

◆◆神武天皇社・社殿
神武天皇を祀る社殿。平成12年(2000年)に伊勢神宮より御用材を受け、社殿が再建された。

▼神武天皇社・社殿①

▼神武天皇社・社殿②

▼神武天皇社・社殿③

▼神武天皇社・社殿④

▼神武天皇社・社殿⑤

▼神武天皇社・社殿⑥

▼神武天皇社・社殿⑦

◆神武天皇社


◆神武天皇東征時の滞在地の「岡田宮」とされるニ社
【神武天皇社】 福岡県遠賀郡芦屋町
【岡田神社】 北九州市八幡西区

◆福岡県の神武天皇を祀る神社
【厳島神社】 ●飯塚市鹿毛馬 【神武社】 ●北九州市八幡西区   【若八幡宮】 ●福津市久末
【神武神社】 ●福津市津丸 【熊野神社】 ●鞍手郡 鞍手町  【御祖神社】 ● 北九州市小倉区
【高祖神社】 ●飯塚市    【天降神社】 ●田川郡川崎町  【正頭八幡神社】 ●行橋市長尾
【蓑島神社】 ●行橋市蓑島 【王子神社】 ●北九州市八幡西区 【賀茂神社】 ●うきは市浮羽町

◆福岡県の神社を調べるには・・・
①福岡県立図書館郷土資料課
②福岡の神社検索サイト 「福岡神社」
③「九州神社紀行」
④「みのむしの『東西南北駆けある記』内 神社探訪」

◆◆芦屋の思い出と神功皇后伝説の洞山の洞穴
2007年の秋に芦屋の山鹿地区の堂山と洞山にいってきたことがある。写真はそのときに撮ったもの。
この堂山と洞山、紛らわしいが、手前の蛭子神社があるほうが堂山で、沖のほうの洞穴があるほうが洞山。
もとは離れた島だったが、今はつながって、両方で洞山と呼ばれている。

小学・中学・高校とこの辺でいろいろお世話になった思い出の場所である。

▼青春の芦屋の海

小学生のときは、柏原海水浴場で家族で海水浴。
中学のときは、彼女とデートしたり、なぜか、もらったラブレターを蛭子神社の岩に挟んだり(笑)・・・・
高校のときは、夕陽を浴びながら、一人で大声で詩吟の練習をしたりした場所だ。

▼堂山の蛭子神社
ヒルコではなくてエビスジンジャと読む。


この青春の思い出の詰まった洞山にも神功皇后伝説が伝わっていたことを最近知ることになった。

【神功皇后伝説】
波懸け遊歩道から見える島。2つの島が連なっており、洞穴のある沖の島を「洞山」、手前の島を「堂山」と言う。2つの島は陸続きで繋がっており、あわせて「洞山」と呼ばれている。
洞山の洞穴は、その昔、『神功皇后が戦に行く途中、芦屋に立ち寄り、必勝を誓って矢を射ると矢は島を貫通し、その穴が大きくなって洞穴になった。』という言い伝えがあるのだそうだ。

▼神功皇后伝説の残る洞山の「洞穴」




【岡湊神社】 仲哀天皇所縁の「大倉主命」と「菟夫羅媛命」を祀る

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 【岡湊神社】 
「産まれた土地」の守り神である産土神社(うぶすなじんじゃ)としての「岡湊神社」

「岡湊」は「おかのみなと」と読み、「日本書紀」には「崗之水門」として登場する芦屋の大変古い呼称であり、実に1800年の歴史を誇り、「古事記」にもその記載がある。
御祭神は「日本書紀」に記されている「大倉主命」と「菟夫羅媛命」のほかに、相殿として「天照皇大御神」「神武天皇」「素盞雄命」とが祭られている。
 境内にはたくさんの文化財がある。一対の石燈籠「式日献燈」は、芦屋が大規模な海運基地であったことを示す貴重な史料で、一対のうちひとつは芦屋の旅行商人(陶器商人)が、もうひとつを「伊万里陶器商人」が寄付しており、ここから堺、江戸へと積み出されていったという。
 二の鳥居にある岡湊神社の扁額は、北白川内親王の書によるもので、文化財として大変貴重なものである。

また神社の縁起書は、江戸時代の儒学者、黒田藩医であった貝原益軒が書いたもので、そのほかにも芦屋の景観の素晴らしさを「岡湊十二景」として古文書に残している。 その景色の素晴らしさは、今もたくさん残っていて、火野葦平の随筆にも登場しているという。

【鎮座地】 福岡県遠賀郡芦屋町船頭町12-48

【御祭神】 [大倉社]
  ・大倉主命(おほくらぬしのみこと) ・菟夫羅媛命(つぶらひめのみこと)

 [相殿]
  ・天照皇大御神(あまてらすすめおほみかみ)
 [祇園社]
  ・素戔鳴尊(すさのをのみこと)
 [神武天皇社]
  ・神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)【神武天皇】

【御由緒】
岡湊神社は、古来より『日本書紀』に記されている「崗浦」(をかのうら/芦屋の古称)の大倉主命(おほくらぬしのみこと)・菟夫羅媛命(つぶらひめのみこと)の二柱のみを祀り「大倉社」と称されていたが、のちに祇園信仰の牛頭天王と集合した素戔鳴尊(すさのをのみこと)が合祀され「祇園大倉社」または「祇園宮寺」、「祇園社」とも称するようになったという。

『日本書紀』には、
仲哀天皇2年9月に、熊襲国を討つ事を決意した仲哀天皇は穴門豊浦宮(山口県)に遷宮した。
仲哀天皇8年(199年)1月4日、仲哀天皇が熊襲征伐の折に穴門から筑紫においでになる時、岡縣主にあたる熊鰐(くまわに)が、周芳沙麼之浦(すはのさばのうら)に出迎えにあがり海路を案内され、「山鹿岬」を経由して崗浦(をかのうら)【現:遠賀郡芦屋町の遠賀川の河口沖】に入ると、船が進まなくなったため「崗浦」の神、大倉主命と菟夫羅媛命に祈り、倭國菟田(やまとのくにのうだ)出身の船頭の伊賀彦(いがひこ)に祀らせると、船は再び進み始めたと伝えられている。
一方、神功皇后は別の船で洞海湾から入って行き、後にこの岡の津で天皇と合流したという。

往古は神領、神宝も多かったが、天正14年(1586)薩摩の島津義弘軍が筑前に侵入、大友義鎮軍と交戦した際戦禍を蒙り社殿社宝等はことごとく焼失した。
翌15年豊臣秀吉の九州平定の後は神領も皆没収され祭儀も衰え30方(社家)も糊口困難のため念仏の徒となった。
正保2年(1645)6月神殿を再建し延宝6年(1678)2月筑前国主黒田光之公(三代)より社領6000坪(神の松原)を賜る。当時の代官花房源右衛門が国主に請願し社殿の修復、絶えていた祭儀の復興などに尽力したためようやく旧観に復した。
宝暦9年(1759)11月拝殿を改築文化5年(1808)11月にも修営した。神託によって得た翁面二個及び鈴一振がありこれを当社第一の宝物としている。
昭和4年(1929)3月中之浜、船頭町大火災により社殿も焼失し昔の面影を失ったが昭和9年に再建した。
昭和20年(1945)6月爆撃のため社殿を焼失した神武天皇社を合祀することになった。
昭和54年(1979)仲哀天皇勅祭記念1780年祭を斎行。

▼仲哀天皇勅祭記念祭の碑

◆岡湊神社の参道と境内

▼一の鳥居


▼二の鳥居と参道

▼北白川内親王の書による「扁額」









◆◆岡湊神社・拝殿
昭和4年(1929)船頭町の大火災により社殿も焼失したが、昭和9年に再建された。







▼神社の縁起書は、江戸時代の儒学者、黒田藩医で「養生訓」で有名な貝原益軒が書いたものという。

◆◆岡湊神社・本殿



体調管理の記録 2014年 【3月】

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◆体調管理の記録


2014年 【3月の記録】 

【1日(土)】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
体重 70.40kg   血糖値(朝食前) 117    血圧149/82  脈拍72  
体脂肪率25.3%  内臓脂肪レベル12 骨格筋率32.0% BMI 24.4 体年齢54

信之介さま・徒然通信 <記念植樹「豊後梅」の祝いの開花>

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東筑高校・同窓の信之介さまから 『徒然通信』が届きました。

◆◆信之介さま・徒然通信  2月28日受信


今日3/1は、東筑高校112期の卒業式です。卒業生の皆さん、おめでとうございます。
我々69期が卒業して○○年になります。

69期の豊後梅も卒業式を祝うように、見事に咲きました。
まだ三部咲きと言ったところですが、卒業式に間に合って咲いてくれました。
これから満開となって、美しさと香りを届けてくれるでしょう。

【高倉神社】 大楠の巨木と神功皇后お手植の「逆さ杉」の綾杉

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 【高倉神社】 

【鎮座地】 福岡県遠賀郡岡垣町高倉


【御祭神】  天照皇大神  ・  大倉主命  ・  莵夫羅媛命

【高倉神社御由緒】

當社は國史所載の古社にして第十四代仲哀天皇八年正月己卯朔壬午筑業に行幸し給いし時、岡の縣主の祖熊鰐周防婆歴浦(さばのうら)に参迎え海路を導き山鹿岬より巡りて岡の浦に入らむとし給ふ。時に神異あり、天皇勅して挾抄者(かじとり)倭國莬田の人伊賀彦命を祝部としめ給ふ。

神功皇后摂政二年五月午の日に此の地に神祠を建て神田千町を以って定めらる 即ち大倉主命莬夫羅媛二神の本宮なり。

古来武人の崇敬厚く年中三度の大祭には在廳の官人をして祭儀を監察せしめられ武家執政の後も検使を遣して祭儀を援けしめられき。
天文五年九州探題大内義隆公社殿の造営ありしも永禄二年大友宗麟の兵火にかかり壮麗なりし社殿も貴重なる社宝と共に烏有に歸せしが天正十五年國主小早川隆景公之を再建。
慶長十八年黒田長政公梵鐘及び鳥居の献納あり。再来歴代の國主神田神山を寄進して崇信の念殊に厚く宝暦元年旧遠賀郡の惣社として定めらる。
 明治五年十一月郷社に列せられ大正九年縣社に昇格す。
現今の神殿幣殿は明治九年田遠賀郡の造営もよるものにして古は神傅院千光院穂智院勝業院の六坊あり。
又社家五家巫女四家ありしも明治初年同時に廃せらる。

境内には御神木として杉楠松楓柳の五樹ありしが今は神功皇后御親裁と傳へられる綾杉と楠のみ残せリ。

『日本書紀』
仲哀天皇2年9月に、熊襲国を討つ事を決意した仲哀天皇は穴門豊浦宮(山口県)に遷宮した。
仲哀天皇8年(199年)1月4日、仲哀天皇が熊襲征伐の折に穴門から筑紫においでになる時、岡縣主にあたる熊鰐(くまわに)が、周芳沙麼之浦(すはのさばのうら)に出迎えにあがり海路を案内され、「山鹿岬」を経由して崗浦(をかのうら)【現:遠賀郡芦屋町の遠賀川の河口沖】に入ると、船が進まなくなったため「崗浦」の神、大倉主命と菟夫羅媛命に祈り、倭國菟田(やまとのくにのうだ)出身の船頭の伊賀彦(いがひこ)に祀らせると、船は再び進み始めたと伝えられている。
一方、神功皇后は別の船で洞海湾から入って行き、後にこの岡の津で天皇と合流した。

◆南側の鳥居と参道


◆北側の鳥居


◆◆高倉神社・境内
まず樹齢600年の大楠の迫力に圧倒される。

【高倉神社の由緒】に
『境内には御神木として杉楠松楓柳の五樹ありしが今は神功皇后御親裁と傳へられる綾杉と楠のみ残せリ。』 とある。

▼境内と樹齢600年の御神木の大楠






▼弐の鳥居と参道

▼壱の阿形の狛犬

▼壱の吽形の狛犬

▼神馬


▼弐の阿形の狛犬

▼弐の吽形の狛犬


◆高倉神社・神門
弐の鳥居から神門、拝殿、御本殿への道は雰囲気があります。

▼高倉神社・神門

▼高倉神社・神門

▼「杉」の神紋が新鮮

▼高倉神社・神門

▼手水舎

▼いい感じの石をくりぬいた手水舎


◆◆拝殿






◆◆御本殿





◆拝殿と御本殿


◆◆神功皇后お手植の「逆さ杉」の御神木の綾杉
この綾杉は、神功皇后が三韓征伐より無事に凱旋の際に、お手植された杉とされ、その時苗木を逆さまに植えられたので、「逆さ杉」(さかさすぎ)とも呼ばれ御神木として崇められてきた。
永禄2年(1559年)、桶挟間の戦いの前年、当時の九州豊後の大友宗麟によって焼き討ちにあい拝殿宝物などすべて焼失したが、幸いに この綾杉の一方の樹皮が生き残り 枝葉が出て現在のように成長しているそうだ。また、昭和45年に原因不明の火災により再度炎上し、幹の空洞部分が黒焦げになったと言われている。
昭和38年に県の重要文化財に指定された。








神社巡りの記録 2014

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◆神社巡りの備忘録

【~2012】
1)平安神宮(京都)   
2)八坂神社(京都)   
3)北野天満宮(京都)   
4)厳島神社(広島)
5)志賀海神社(福岡)
6)太宰府天満宮(福岡)
7)赤間神社(下関)

【2012】
≪11月≫
8)伊勢神宮(三重)
9)速玉大社(三重)
10)熊野那智大社(三重)

【2013】
≪7月≫
11)織幡神社(福岡)
12)宗像大社(福岡)
13)宮地嶽神社(福岡)
14)香椎宮(福岡)
15)愛宕神社(福岡)
≪8月≫
16)宇佐神宮(大分)
≪10月≫
17)天岩戸神社(宮崎・高千穂)
18)高千穂神社(宮崎・高千穂)
19)槵觸神社(宮崎・高千穂)
20)荒立神社(宮崎・高千穂)
21)霧島神宮(鹿児島・霧島)
≪11月≫
22)出雲大社(島根)
23)日御崎神社(島根)
24)須佐神社(島根)

【2014】
≪1月≫
25) 水鏡天満宮(福岡)
≪2月≫
26)祐徳稲荷神社(佐賀)
27)大嶽神社(福岡)
28)志式神社(福岡)
29)綿津見神社(福岡)
30)高倉神社(福岡)
31)神武天皇社(福岡)
32)岡湊神社(福岡)
33)宇美八幡宮(福岡)
34)忌宮神社(下関)
35)住吉神社(下関)
36)大分八幡宮(飯塚)
37)嚢祖八幡宮(飯塚)
38)綱分八幡宮(飯塚)

2014年3月3日現在・・・38社を参拝

神社巡りの道案内

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◆【神社巡りの総合道案内】◆
神社巡りの道案内として、以下のサイト・ブログの情報を参考にさせていただいています。

◆玄松子の記憶

◆神社探訪・狛犬見聞録

◆ポータルサイト日本神社

◆ぶらり神社めぐり


◆【和歌山の神社巡り】
◆わかやま記紀の旅

◆【九州の神社巡り】
◆九州神社紀行
◆~風の宿り~ブログ
◆神武天皇を祀った神社 新しい日本の歴史

◆【宮崎県の神社巡り】
◆宮崎の神社
◆宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~
◆ようこそ宮崎 宮崎と神話

◆【福岡県の神社巡り】
◆ひもろぎ逍遥 (神功皇后伝承の神社巡り)
◆みのむしの『東西南北駆けある記』 神社探訪
◆神社巡りのススメ|神社と神様 福岡県の神社
◆スカンクさんの独り言 福岡県の神社巡り
◆玄海の風 インデックス
◆福岡・北九州エリアの人気の神社 まっぷるガイド
◆福岡よかとこ.com 神社・仏閣
◆福岡のご利益さん 福岡のお寺・神社

◆【福岡市の神社巡り】
◆神社めぐり参拝帳
◆福岡市パワースポット神社巡り

◆◆日本神話と神社巡り◆◆
◆日本の神話 古事記
◆神話の森のブログ
◆古代史の復元
◆ー紀行・聖地巡歴・古道・古社を歩くー

巨木もいいね

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【宇美八幡宮】  ご神木の大楠・衣掛の森

樹齢約2000年   幹周20m 樹高20m

神功皇后が応神天皇出産時に、産衣(うぶぎ)をかけた楠と伝えられている。

宇美八幡は神功皇后が応神天皇を産んだ土地、そこから「産み」となり、いつしか「宇美」の字を当てるようになり、地名として残ったとされている。




巨木・ご神木(2)  【宇美八幡宮】  ご神木の大楠・湯蓋の森

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【宇美八幡宮】  ご神木の大楠・湯蓋の森 (ゆぶたのもり)     福岡県糟屋郡宇美町

神功皇后が応神天皇をご出産時に
このクスノキの下で産湯(うぶゆ)をお仕えした時に、枝葉が茂って湯槽の上を蓋のように覆った事から、この木を「湯蓋の森」と呼ぶようになったという。

『 神功皇后新羅より帰らせ給い香椎より巽の方蚊田の邑に御産舎を営ままれこもらせ給う、御側に生茂れる楠あり、其の下にて産湯をめさせ給う、其の大木繁茂し枝葉ことにうるわし、後人これを名付けて「湯蓋の森」という 』

樹齢約2000年 幹周り15.7m 樹高20m



巨木・ご神木(3)  【香椎宮】  御神木 「綾杉」

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【香椎宮】  御神木 「綾杉」      福岡市東区香椎

西暦200年に神功皇后自らが植えられたという御神木。
神功皇后は「とこしへに本朝を鎮め護るべし」との祈りをこめて植えられたという。
綾杉は幾度か火災にあって焼失したが、その都度、新しい芽が出て大木に成長した。

明治維新頃までは毎年正月、不老水と御神木の綾杉の枝を皇室に献納していたとのこと。  

新古今和歌集に「ちはやふる香椎の宮のあや杉は神のみそきにたてる成けり」と詠まれ、
また夏目漱石も「秋立つや千早ぶる世の杉ありて」と句を残した老名木である。

▼御神木「綾杉」①

▼御神木「綾杉」②

▼御神木「綾杉」③


巨木・ご神木(4)  【仲哀天皇の古宮・橿日宮址】 ご神木「棺掛椎」 

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【仲哀天皇の古宮趾・皇居橿日宮】  ご神木「棺掛椎」 (かんかけのしい)                                                                               福岡市東区香椎

古宮は仲哀天皇の皇居・橿日宮(かしひのみや)の跡であり、神功皇后が自ら崩御された仲哀天皇の神霊を祀られた香椎宮創建の地でもある。

熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇が本陣を置かれたのが橿日宮(かしひのみや)である。
あるとき仲哀天皇は神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。 それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし、天皇は、これを信じず神を非難した。
そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌年2月、この地でお亡くなり(崩御)になった。

神功皇后は御棺に天皇の亡骸を入れ、橿日宮の椎の木に立て掛けておいたところ、四方に香ばしい香りがあたり一面に漂った。このことが香椎の地名の起こりとされている。この木を「棺掛椎」(かんかけのしい)と言い、この地を「香椎(かしい)」と言うようになったという。
その「棺掛椎」は今も玉垣の中に見ることができる。

神功皇后はこの地に祠を建て、仲哀天皇の神霊をお祀りした。
これが仲哀香椎廟、つまり香椎宮創建の地である。
のちの724年、神功皇后の霊を祭る神功香椎廟(現在の香椎宮)が建てられる。
大正4年になって、初めてお二人の霊は香椎宮本社に合祀されることとなった。
現在の香椎宮は仲哀天皇、神功皇后、加えて息子の応神天皇が配祀されている。

【棺掛椎】
『仲哀天皇の御遺業を完遂せんとし給い 神功皇后は天皇の喪を秘し 天皇の御棺をこの椎に立て掛けられ恰も天皇御臨の御前会議を開かれた この時御棺より薫風漂いたるにより 香椎の名起るとの地名伝説もあり 』

▼仲哀天皇の古宮趾


◆棺掛椎
仲哀天皇の御棺を椎(しい)の木に立て掛けておいたところ、四方に香ばしい香りを放ったという棺掛椎。

▼ご神木「棺掛椎」

▼ご神木・棺掛椎の「香椎」
六角の玉垣の中に祀られている御神木・棺掛椎の「香椎」

信之介さま・徒然通信 <記念植樹「豊後梅」の啓蟄と開花>

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東筑高校・同窓の信之介さまから 『徒然通信』が届きました。

◆◆信之介さま・徒然通信  3月9日受信




何時ものように啓蟄の頃の、この冬最後の寒波がやって来ています。

69期の豊後梅もこの寒さで開花も七分咲きと言ったところで一休みをしているようです。

八重の豊後梅が綺麗に咲き誇っています。

今年は植えたばかりで、まだ枝も張ってませんがその加減でしょう、

花数が少ないようにも思われます。



3月上旬の風景 ・・・九州国立博物館と桜餅

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◆3月7日(金)
九州国立博物館で「国宝・大神社展」を鑑賞



◆3月9日(日)
卒塾の日での恒例の卒塾祝いと合格祈願の
竹鶴饅頭本舗さんの「紅白饅頭」と「桜餅」


「天孫族追憶の旅」の風景

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「天孫族追憶の旅」で鹿児島にいってきました。

真夜中の雨に煙る高千穂峰の霧島神宮・古宮跡の風景です。

幻想的な風景に出会えました。



【日向神話】 「天孫族・追憶の旅」 鹿児島編 ハイライト

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【日向神話】 「天孫族・追憶の旅」 鹿児島編 ハイライト

◆3月11日(火)
福岡を午前9時出発。九州高速道を南下し鹿児島へ

①鹿児島縣・護国神社
明治維新以降の国事に殉じた鹿児島県出身の英霊や、殉職した自衛官、警察官、消防士等77,000柱余を祀る神社 


②枚聞神社(指宿) 


③釜蓋神社(射楯兵主神社) 


④笠沙岬 

◆3月12日(水)
⑤番所鼻公園(南九州)
 
⑥長崎鼻・竜宮神社


⑦豊玉姫神社(知覧)


⑧鹿児島神宮(霧島)


⑨卑弥呼神社(霧島)
魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の女王・卑弥呼が国分・隼人地区に居城を持っていたという由来に基づき建立された神社


⑩石體神社(霧島)


⑪宮浦宮(国分)


⑫霧島神宮・古宮跡(高千穂峰)

◆3月13日(木)
雨の霧島神宮・古宮跡(高千穂峰)から福岡へ
最後に志賀島の「金印の湯」 全走行距離958km


【福岡県の飯塚・直方の神社巡り】 ハイライト

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◆3月16日

◆≪鶯塚≫ (飯塚市大分) JR筑前大分駅の東
【神功皇后伝説】
三韓遠征の後、神功皇后は粕屋の宇美邑にて応神天皇を出産ののち、翌年の春、京にお上りの際軍隊を引率され粕屋、嘉穂の郡境にある験しい山「ショウケ越え」を経られ、大分(だいぶ)にお着きになった。神功皇后は、この鶯塚でで軍勢を解散し、それぞれの故郷に帰らせたという。大分の鶯塚で兵士達と別れたので「大いなる分かれの場」だから「大分」になったという地名譚がある。
また近くには神功皇后が暫し滞留され、
筑紫の行政を執行されていたという由縁の大分天満宮がある。


◆椿八幡宮 (飯塚市椿)
神功皇后が新羅、百済、高句麗よりの帰途この地に立ち寄られ、その折り堅い木で作られた御剣の鍔(つば)を奉納され、日本の平和と繁栄を祈願された所と伝えられており、これにより「ツバキ」(椿)の名が起ったといわれている。
また、昔の農耕作業の様子が描かれた、たくさんの絵馬が奉納されている。



◆天道神社 (飯塚市天道)
御祭神は大日霊貴命おおひるめむちのみこと(天照大神)
         
由 緒
「古老よりの伝えによれば、61代朱雀天皇の承平、天慶の御代、平将門 藤原純友の反乱(承平、天慶の乱)の際源満仲勅命を受けて先ず将門を東国にて討ち、のちに純友を現在の大将陣に対陣し決戦を挑む  満仲勅命を奉じ朝敵を討ち祖神の加護を信じ戦うべしと部下に命じて大将陣の麓に祭る天照大神に祈願し全軍玉串を襟にさして戦い撃滅するを得たりと云へけり、即ちこの頃天道神社ありしものと考えられる。今より約千年以上前のことなり。 」



◆老松神社 (飯塚市阿恵)
老松神社がある場所はかつてオオクニヌシとスクナビコナが諸国巡回の折に逗留した地であるといわれる。
飯塚周辺にも老松神社が多いが、これは神仏習合の時代に大宰府天満宮の別当寺だった安楽寺の寺領が各地にあり、その場所に老松神社が祀られることが多かったからのようだ。
この阿恵の老松神社は筑豊本線・上穂波駅の東約150mに鎮座している。



◆庚申社 (直方市山部)
庚申社(こうしんしゃ)は直方市山部にある神仏習合で祀る神社。
猿田彦大神を主神として元文2年(1737年)2月に唐津の庚申神社より現在地に鎮座した。
境内には庚申の「申」と猿田彦大神の「猿」を結び付けられたものと考えられ、庚申信仰の三尸(さんし)説「見ざる聞かざる云わざる」等 の石で彫られた「さる」が数百体ある。



◆多賀神社 (直方市直方)
多賀神社は、JR筑豊本線の直方駅から南に約500mの位置にある小高い丘に鎮座している。坂を下がったところに庚申社もある。
壽命の神、鎮魂・厄除の神として有名な多賀神社は、伊邪那岐大神(男神)と伊邪那美大神(女神)の二柱の神をお祀りしている。
古くは日ノ少宮・日若宮と称之、奈良朝時代には妙見大明神多賀大神と称えたこともある。。元禄5年(1692年)に妙見神社から社名を多賀神社に改めた。




◆藤姫稲荷神社(直方市直方) 多賀神社境内社
日本書紀には、伊邪那岐・伊邪那美二神の御子神であり、多賀神社では宇迦之御魂大神(倉稲魂大神)を藤姫稲荷大神の神名で御祭神として祀る独自の神社。
昔から多賀大神の眷族として、この霊地(日若の山)の地主神と称えられ、多賀大神の奥宮の霊力を受けて、その荒魂としての藤姫稲荷大神の御神威は非常に高く、生活の根源である五穀・食物を司り、家運隆昌と商売事業の繁栄の神として広く信仰を集めてきたという。


◆花日和の好天でした。




【宇美八幡宮】 「応神天皇御降誕の地」

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【宇美八幡宮】 編集中

福岡県糟屋郡宇美町宇美に鎮座。

神功皇后が三韓征伐からの帰途に応神天皇を産んだ地に、
敏達天皇3年(574年頃)に応神天皇を祀ったのに始まる。

「宇美」の地名も「産み」に由来する。

平安時代ごろから石清水八幡宮と本末関係となった。鎌倉時代初期から安産の神として信仰されるようになった。

【御祭神】 応神天皇・神功皇后・玉依姫・住吉大神・伊弉諾尊

【宇美八幡宮の紹介】
宇美八幡宮は福岡県糟屋郡宇美町平野部のほぼ中央に位置し、第十五代応神天皇御降誕の地に応神天皇さまを始め神功皇后さま、玉依姫、住吉大神、伊弉諾尊さまをおまつりします。八幡様は殖産文化の祖神として遍く崇敬されておりますが御降誕の聖地におまつりする宇美八幡宮は「安産育児」の信仰が特に篤くたくさんの方が安産祈願や安産の御礼に参拝されます。

 ご創建はきわめて古く、当宮に伝わります「伝子孫書」によれば「敏達天皇三年甲午筑紫の蚊田の邑に始めて宮柱太敷建給う。」とあります。平安時代には石清水八幡宮と本末関係にあり安産祈願の守護神として信仰されておりました。江戸時代以降は福岡藩主黒田公より社殿の修復、神領の寄進等がなされ、明治五年村社に列格、明治二十四年には県社に昇格しました。

 境内には樹齢二千年と推定される「湯蓋の森」「衣掛の森」を始め数多くの老樟が生い茂り、若葉の季節となれば萌えるような若葉に御神威の新たな息吹を今日に伝えています。

境内には、神功皇后が出産のときにすがりついたという「子安の木」、応神天皇の産湯に使ったと伝えられる「産湯の水」などがある。境内末社・湯方殿の前には「子安の石」と呼ばれる拳大の石が納められており、妊婦は安産を祈願してこの石を持ち帰り、出産後は別の新しい石を添えて返すという風習がある。

▼一の鳥居

▼「八幡宮」の扁額


宇美八幡宮の神紋は「右三つ巴」。右三つ巴は綿津見神社と織幡神社の神紋と同じ。

香椎宮、筥崎宮、宇佐神宮、住吉神社(福岡)、志賀島神社、志式神社の神紋は「左三つ巴」

▼二の鳥居(元禄の鳥居)

▼阿形の狛犬

▼吽形の狛犬

▼注連掛石(しめかけいし)

▼注連掛石と参道

▼参道の風景

▼参道の大楠

【宇美八幡宮】 (2) 湯蓋の森と衣掛の森と「御胞衣浦」

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【宇美八幡宮】   福岡県糟屋郡宇美町宇美に鎮座。

【宇美八幡宮の紹介】
宇美八幡宮は福岡県糟屋郡宇美町平野部のほぼ中央に位置し、第十五代応神天皇御降誕の地に応神天皇さまを始め神功皇后さま、玉依姫、住吉大神、伊弉諾尊さまをおまつりします。八幡様は殖産文化の祖神として遍く崇敬されておりますが御降誕の聖地におまつりする宇美八幡宮は「安産育児」の信仰が特に篤くたくさんの方が安産祈願や安産の御礼に参拝されます。

 境内には樹齢二千年と推定される「湯蓋の森」「衣掛の森」を始め数多くの老樟が生い茂り、若葉の季節となれば萌えるような若葉に御神威の新たな息吹を今日に伝えています。

◆◆ご神木の大楠・【湯蓋の森】 (ゆぶたのもり)     

応神天皇御降誕の時に
この樟樹の下にて産湯を仕え奉り、その枝葉が茂って湯槽の上を蓋のように覆った事から、この木を「湯蓋の森」と呼ぶようになったという。

『 神功皇后新羅より帰らせ給い香椎より巽の方蚊田の邑に御産舎を営ままれこもらせ給う、御側に生茂れる楠あり、其の下にて産湯をめさせ給う、其の大木繁茂し枝葉ことにうるわし、後人これを名付けて「湯蓋の森」という。 』

樹齢約2000年 幹周り15.7m 樹高20m  国指定天然記念物

▼湯蓋の森①

▼湯蓋の森②

▼湯蓋の森③

▼湯蓋の森④

▼湯蓋の森⑤

◆◆ご神木の大楠・【衣掛の森】 (きぬかけのもり) 

神功皇后が応神天皇をご出産時に、産衣(うぶぎ)をかけた楠と伝えられている。

樹齢約2000年   幹周20m 樹高20m   国指定天然記念物

▼衣掛の森①

▼衣掛の森②

▼衣掛の森③

▼衣掛の森④

▼衣掛の森⑤


◆◇◆ 奥宮 【応神天皇 御胞衣浦】 (えながうら)
奥宮「御胞衣浦」は宇美公園の一角にある。宇美公園へ行くには子安橋で宇美川と道路を越えて行くことになる。
【宇美八幡宮の説明文】
御神苑の小高い丘に神殿が鎮座。皇子(応神天皇・八幡様)の御胞衣を納めし処と伝えられております。
御胞衣とは、へその緒、胎盤など後産を指し、筥(はこ)に入れ保管するなど、今でも大切に考えられています。
▼子安橋を越えて宇美公園へ。遠くに宝満山が見える。

▼宇美公園

▼「御胞衣浦」への入口

▼「御胞衣浦」の一の鳥居

▼「御胞衣浦」の二の鳥居

▼「八幡宮」の扁額

▼【応神天皇 御胞衣浦】

▼【応神天皇 御胞衣浦】





【忌宮神社】 仲哀天皇が7年間政務をとられた豊浦宮趾

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【忌宮神社】  山口県下関市長府宮の内町

編集中

【豊浦宮と忌宮神社】

第14代仲哀天皇は元年(192年)に熊襲の征討に西下し、仲哀天皇2年(193年)に穴門(長門)に行宮の豊浦宮を建てられた。
忌宮神社は仲哀天皇が193年から7年間滞在し政務をとられた豊浦宮旧趾にある。

三代実録によれば、仲哀天皇4年(195年)に秦の始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したとされ、豊浦宮(現在の忌宮神社)が蚕種渡来の地とされる。

天皇はさらに筑紫(福岡県)の香椎に進出したが、天照大神と住吉三神による託宣を疑ったため筑紫の香椎で1年にして崩御せられた。神功皇后は喪を秘して重臣武内宿禰に御遺骸を奉じて豊浦宮に帰らしめ、現在の長府侍町土肥山に殯斂(仮埋葬)せられた。
そして皇后はご懐妊中ながら、熊襲を煽動していた新羅征討をご決行、ご凱旋ののち、天皇の御神霊を豊浦宮に鎮祭せられた。

第45代聖武天皇の神亀5年(728年)、信託によって香椎宮から神功皇后・応神天皇を勧請・合祀し、仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」、応神天皇を祀る神殿を「豊明宮」と称し、三殿別立となっていた。

中世に、火災により全て「忌宮」に合祀したことから「忌宮」と呼ばれるようになった。延喜式神名帳では「長門国豊浦郡 忌宮神社」と記載されている。

延元元年(1336年)、足利尊氏が忌宮神社で戦勝祈願を行い延元2年(1337年)に法楽和歌を奉納する。長府毛利家の厚い庇護を受け、境内社として歴代藩主を祀る豊功神社も置かれた。
古来、文武の神・勝運の神として歴朝の尊崇厚く、また安産の神として庶民の信仰を受けてきた。



【忌宮神社の由緒】
「古事記」「日本書紀」等の書物によれば、九州の熊襲平定のため西下された仲哀天皇と神功皇后は、本州の西端で九州を真向こうに見据える要衝のこの地に8年正月までご滞在になり、斎宮をたて神祇を祭られたのが忌宮の起りとされている。
のち聖武天皇の神亀5年(728)、信託によって筑前香椎宮より神功皇后の神霊を勧請して中殿に奉斎し、殿として仲哀天皇、応神天皇をお祀したと伝えられている。

社伝によれば、9年2月に香椎で崩御せられた仲哀天皇の御屍を、皇后は武内宿禰に命じて海路より穴門に遷されたという殯斂の地が神社の南方500メートルの丘にあり、天皇の神霊を鎮守した御社を行宮にちなんで豊浦宮と称し、くだって聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明宮と称する三殿別立の神社だったが、中世の火災により豊浦宮、豊明宮が焼失し、忌宮に合祀したと伝えられている。

▼忌宮神社・境内案内図

▼一の鳥居

▼鳥居の横の「忌宮神社由緒」

◆◇◆忌宮神社・境内と広庭


◆◆鬼石と数方庭祭
豊浦宮に攻め寄せた新羅の武将・塵輪を射倒しその首を埋めたとされる場所。塵輪の顔が鬼のようであった事から「鬼石」と呼ばれている。
毎年8月7日から13日までの毎夜この鬼石を中心として広庭で「数方庭」が行われる。男子は幟を、女子は切籠と呼ばれる灯籠を吊した笹竹をもち、鉦や太鼓の音色に和して鬼石の周りを踊り舞う。
また、探査機による鬼石周辺の調査を行った所、当社に伝わる伝承通りの深度の場所に金属の反応があらわれ、塵倫を葬った際の副葬品ではないかと云われている。


【数方庭(すほうてい)の由来と鬼石】
第14代仲哀天皇は、九州の熊襲の叛乱を平定のため西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが、仲哀天皇7年旧暦7月7日朝鮮の新羅国・塵輪(じんりん)が熊襲を扇動し豊浦宮に攻寄せた。皇軍は奮戦したが宮内を守護する阿部高麿・助麿の兄弟まで討死した事で、天皇は憤られ、自ら弓矢をとって塵輪を射倒され、賊軍は退散した。皇軍は矛をかざし旗を振りながら、塵輪の屍の周りを踊ったのが数方庭(8月7日~13日まで毎夜行われるお祭)の起源と伝えられている。
塵輪の顔が鬼のようであったことからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。


◆◆神功皇后お手植えの「さか松(逆松)」
神功皇后(第14代仲哀天皇の皇后)は、三韓(新羅・百済・高句麗)出兵に際し、七日七夜天地の神々に御加護を祈願された。
お手つから一本の稚松を逆さまに植えて「我志を得ば、この松枯れずして生い茂りなむ」と神祇に誓われたと伝えられている。逆さまに植えられたが、活着して繁り栄えたので「さか松」と呼ばれた。
古くより神木とされて歳月とともに松葉茂って天中に聳え、はびこった根は真牡鹿の角に似ていたと伝えられてきたが、明治初(1868)年火災に巻き込まれ後に枯死し、現在はその根幹だけが玉垣の中に保存されており、子孫の松が周りに松葉を茂らせている。
願掛けに力を発揮すると云われている。
 



◆◆宿禰の銀杏(すくねのいちょう)
御祭神仲哀天皇・神功皇后・応神天皇にお仕えした大臣武内宿禰手植えの銀杏と伝えられる古木である。
銀杏が3代に渡り繁り毎年多くの実を付け開運と子孫繁栄の御利益があると云われており、神職が一つ一つ剥き授与品となるという。



【宿禰の銀杏】
当忌宮神社の祭神、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇に仕えた大臣・武内宿禰が植えたと伝えられる古木・銀杏でその子孫が繁茂している。銀杏は「生きた化石」とも云われるほど地球上でもっとも古くよりみられる植物で、武内宿禰の長寿と結びついている。


◆乃木の楠
明治時代を代表する人物の1人、乃木希典大将お手植えのクスノキ。乃木さんは楠木正成を崇敬していたという。楠は下関市の木という。乃木将軍は長府の出身で近くには乃木神社がある。
長府は 本州最西端の城下町。『大化の改新の後、長門国の国府が置かれたことから、「長府」と呼ばれるようになったと「日本書紀」が伝えている。江戸時代には、長府毛利藩5万石の城下町として栄え、幕末には功山寺で高杉晋作が決起するなど、維新回天の舞台ともなった。

信之介さま・徒然通信 <彼岸を過ぎ・・・春の風景>

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東筑高校・同窓の信之介さまから 『徒然通信』が届きました。

◆◆信之介さま・徒然通信  3月23日受信



「暑さ寒さも彼岸まで」の通りこのところ急に暖かくなっています。

69期の豊後梅もすっかり花も散ってしまいました。豊後梅は大きな実を付けます。

梅雨前には実を取りたいものですが、最早東筑の木ですので、東筑はどうするでしょう?



遠賀川や、彦山川の河原には一面に菜の花が咲き誇っています。

平成筑豊鉄道の市場駅近くで撮影した「菜の花と平筑の一両列車」を添付します。


この3/21、22、23の3日間で全国高校選抜ボート大会が浜松市の天竜ボート競技場で開かれました。

東筑は女子舵付クォドプルが、最終日のC決勝に残り全国10位になりました。
全国でベスト10入りです。



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