【住吉神社・住吉荒魂本宮】 山口県下関市一の宮住吉1-11-1
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【住吉神社・住吉荒魂本宮の起源】
『日本書紀』によれば、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「反乱軍の背後には三韓の勢力がある。まず三韓を征討せよ」との神託を得た。しかし天皇はこの神託に従わず、翌年の仲哀天皇の9年(200年)、天皇は崩御した。その翌月、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて三韓へ出航した。
その三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后に
住吉三神(住吉大神)の『吾 和魂(にぎみたま)は 玉身(みみ)に服いて寿命を守り、荒魂(あらみたま)は先鋒となりて 師船(みいくさのふね)を導かん』との神託により大神を守神として進軍し、神助により交戦することなく戦勝した。
凱旋の折には、大神の「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と再び神託があり、神功皇后は現在の地に祠を建てて、「荒魂」を鎮祭したのが住吉神社の起源である。
また、神功皇后は「和魂を」大津の渟中名倉の長峡に鎮めて祀り、本霊である「住吉三神」をして摂津の国大阪の地に住吉大社の総本社を創建して祀った。
その後、住吉大社には神功皇后も祀られるようになり、住吉大神と神功皇后とで、「住吉坐神社四座」と呼ぶようになった。
住吉神社・住吉荒魂本宮は、創建の由緒から軍事と海上交通の神として厚い崇敬を受け、延喜式神名帳では名神大社に列し、長門国一宮とされた。鎌倉時代に入り、源頼朝を始め歴代将軍からの社領などの寄進を受けた。戦国時代に一時衰微したが、大内氏、毛利氏からの崇敬を受けて復興し、江戸時代には長州藩主毛利氏によって社殿の修復が行われた。明治4年(1871年)に国幣小社となり、明治44年(1911年)に官幣中社に昇格した。
◆参道から楼門へ
広く開放感のある境内。参道の横には広い池があり、落ち着いた雰囲気がある。
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▼太鼓橋と参道
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▼手水舎 神紋は水巴
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▼手水舎のユニークな容の石像
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▼神籠石(こうごいし)
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▼微笑ましい阿形の狛犬 (昭和19年9月吉日建立)
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▼吽形の狛犬
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▼参道の石段の上に楼門が見えてきた。
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【住吉神社・住吉荒魂本宮の起源】
『日本書紀』によれば、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「反乱軍の背後には三韓の勢力がある。まず三韓を征討せよ」との神託を得た。しかし天皇はこの神託に従わず、翌年の仲哀天皇の9年(200年)、天皇は崩御した。その翌月、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて三韓へ出航した。
その三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后に
住吉三神(住吉大神)の『吾 和魂(にぎみたま)は 玉身(みみ)に服いて寿命を守り、荒魂(あらみたま)は先鋒となりて 師船(みいくさのふね)を導かん』との神託により大神を守神として進軍し、神助により交戦することなく戦勝した。
凱旋の折には、大神の「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と再び神託があり、神功皇后は現在の地に祠を建てて、「荒魂」を鎮祭したのが住吉神社の起源である。
また、神功皇后は「和魂を」大津の渟中名倉の長峡に鎮めて祀り、本霊である「住吉三神」をして摂津の国大阪の地に住吉大社の総本社を創建して祀った。
その後、住吉大社には神功皇后も祀られるようになり、住吉大神と神功皇后とで、「住吉坐神社四座」と呼ぶようになった。
住吉神社・住吉荒魂本宮は、創建の由緒から軍事と海上交通の神として厚い崇敬を受け、延喜式神名帳では名神大社に列し、長門国一宮とされた。鎌倉時代に入り、源頼朝を始め歴代将軍からの社領などの寄進を受けた。戦国時代に一時衰微したが、大内氏、毛利氏からの崇敬を受けて復興し、江戸時代には長州藩主毛利氏によって社殿の修復が行われた。明治4年(1871年)に国幣小社となり、明治44年(1911年)に官幣中社に昇格した。
◆参道から楼門へ
広く開放感のある境内。参道の横には広い池があり、落ち着いた雰囲気がある。

▼太鼓橋と参道

▼手水舎 神紋は水巴

▼手水舎のユニークな容の石像

▼神籠石(こうごいし)

▼微笑ましい阿形の狛犬 (昭和19年9月吉日建立)

▼吽形の狛犬

▼参道の石段の上に楼門が見えてきた。
